「中風の人を癒す」

マルコの福音書 2:1-12

礼拝メッセージ 2020.8.9 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


中風の人を癒すイエス

 イエスがある家にいることが分かって、人々が殺到しました。もう外から人が家に入れる隙間はなかったようです。ここで遅れて来た人たちがいました。四人の男性が身体の麻痺した男性を担いでやってきたのです。聖書には明確に記されていませんが、この麻痺した男性の癒しを求めてきたと推察されます。人がいっぱいですでに中に入れないので、屋上に上がって屋根をはがし、そこから病人をイエスの近くにつり下ろしました。ここでイエスは病の人を癒すのではなく、「子よ、あなたの罪は赦された」と宣言します。イエスは癒しの期待を裏切ったことになります。ここから主題は癒しから罪の赦しへと変わっていきます。律法学者たちは、イエスが罪の赦しを宣言したことに疑惑を抱きます。当然でしょう。神だけが罪を赦すことができると考えられていたのであり、イエスの言葉は僭越でしたし、冒瀆でもありました。しかし、罪の赦しの宣言と癒しの実現とどちらが易しいのか(簡単なのか)と問いただし(この質問は非常に意味が深いので、よく考えてみてください)、人の子が罪の赦しの権威を持つことを証明するために癒しを行うと言います。そして、病人は癒されました。


「罪」という考え方

 中風を患った人の癒しをめぐる罪と赦しが主題となっています。マルコ福音書での「罪」と言う考えは社会に根ざした考え方です。律法を守ろうとしない人々、あるいはその職業のゆえに律法を守ることが出来なかった人々、あるいは律法を守る能力のない者とみなされた人々(病人、女性、子供、異邦人など)を指しています。彼らは多くの場合、安い労働力で人々の嫌がる(多くが穢れているとみなされた)職業に就くことで社会的な貢献をしていましたが、律法をめぐる考え方のゆえに社会的な差別を受けていました。この差別は、宗教的な権威者や信者によって起こされていたわけですが、差別を受けていた者も自らを神からの祝福を受けるに値しない者と考えていたので、何かが変わることは難しかったようです。イエスは罪の赦しを宣言することで、このような社会的な状況を打ち破ろうとしたわけです。もう少し正確に言えば、罪の赦しという事ではなく、ある人びとを罪人としてしまうような考え方を台無しにしようとしたのであり、人間が誰かを罪人として定める考えそのものがおかしなことであると宣言したのです。病人を単に罪を赦すということであれば、何か罪がそこにあったと言うことになりますが、それ自体がイエスにとっては否定すべきものでした。病人への罪の赦しの宣言は、この病を得ている人は神から見捨てられているのではないことを、この人自身や周りの人々に悟らせる言葉でした。


罪の赦しの宣言

 イエスは「人の子」という言葉を用いています。本日の物語ではイエスが赦しているので、「人の子」はイエス自身を指していると考えるのが自然でしょう。しかし同時に人間一般を指す可能性も否定できません。「人の子」はもともと人間を表現することばです。もちろん、究極的に罪を赦す(罪からの解放)のは神であることは誰も否定できません。しかし、それを宣言するのは特権者ではなく一般の人々であるということになります。罪とされることで苦しんでいる人々を解放するのは、それに関わる人であれば誰でも良いということになります。実は、イエス自身も当時の感覚からすれば罪を赦す権威を持っていたとはみなされていませんでした。イエスが罪を赦すとは、一般の人間が罪からの解放を宣言するに等しかったのです。だから律法学者たちは不平を述べているのです。「神の子」イエスだけではなく、誰でも罪の赦しが出来るというのは、イエスへの冒瀆のように思えるかもしれません。しかしその考えはイエスが否定した律法学者と同じ考えであり、イエスの意図とは違った解釈です。私たちは、ゆえなく社会(私たち自身もその社会の一員であるが)から差別されたり、貧しいままに置かれたりする人々と共に生きる、神が彼らを招いていることを伝え、神の救い(解放)の業を実行することで、イエスの行った罪の赦しの宣言を行うことができるのです。イエスの業は遠いことではありません。私たちはその業に招かれていることを、つねに自分のものとしたいと思います。