「レビを弟子にする」

マルコの福音書 2:13ー17

礼拝メッセージ 2020.8.16 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,イエスは罪人たちを招くために来られた

取税人、罪人、パリサイ派

 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」(17節)というイエスのおことばは有名ですが、ここで言う「罪人」というのは、当時の宗教活動の担い手であった「パリサイ派の律法学者たち」によって、律法を守れない人々に対して使われた蔑称でした。「罪人」のレッテルを貼られたのは、取税人のほか、犯罪者、売春婦、乞食、羊飼い、船乗り、皮なめし職人などです。しかもユダヤ人から見て、異邦人はすべて罪人でしたし、宗教的な汚れに触れざるを得ない労働従事者、仕事ゆえに儀式や祭りに参加できない者たち、当時の下級労働者たちのほとんどが「罪人」として差別されていました。「パリサイ派」と呼ばれる者たちのその名称は、分離するという意味のことばから来ており、自分たちは罪人たちとは違って、神の前に聖別されたきよい存在であるとの思いを持っていました。イエスのことばで言えば、自分たちこそ「正しい人」あるいは「義なる者」との自負がありました。

罪人を招くために

 この時代、職業や身分は親から子へと代々引き継がれていたことでしょう。したがって生まれ持った貧困と低い身分や立場から抜け出したくても、容易には逃れられませんでした。パリサイ派の者たちや周りの人々からも、罪人と見られていた彼らは、罪深い生活しか送ることができないことを自覚し、神の祝福からも恵みからも引き離された、呪われた存在であるかのように思わせられていたのでしょう。その点から考えると、17節の「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来た」と言われたイエスのお言葉は、このような当時の時代背景からすると、とてつもなく大胆な宣言であったことがわかります。彼らがずっと持ち続けて来た恐ろしい自己観念の呪縛と社会の差別構造をイエスは完全に打ち砕いて、彼らを神の御前に生きることのできる真の人間として立つことができるように解放されたのです。

レビを招かれるイエス

 13節を見ると、イエスはガリラヤ湖のほとりに行かれて、そこで群衆を前に、教えを語っておられました。イエスがここにおられる、あそこにおられるという噂は、町や村の中にすぐに広がり、彼が行かれるところには必ず人だかりができていました。イエスを追いかけて湖に向かう群衆の動きを傍目で見ながら、自分には関係がないとばかりに、収税所に男がひとり座っています。彼の名前はレビです。おそらく通行税を取る仕事だったのでしょう。取税人は売国奴のように思われていた罪人でした。並行記事のマタイの福音書9章を見ると、このレビという人物は、別名マタイであったようです(マタイ10:3には「取税人マタイ」と書かれています)。福音やイエスと自分は関係がないと、収税所に座っているレビの姿は、私には何だか自分の以前の姿を見る思いがしています。現代的に言えば、キリスト教や教会と何の関わりもない、聖書も読んだことがない、いやもっと大切な点は、神が自分に関心を持っておられることなんて全く知らないし、神に愛されているなどと思ったことがない、そういう方がここに記されているレビなのです。

立ち上がらせるイエス

 しかし、自分を部外者であると思い込んでいたレビにイエスは目を留められました。イエスの澄んだまなざしが孤独な彼に向けられたのです。そして呼びかけられました。「わたしについて来なさい」と。彼の冷え切った、固く閉ざされていた心の奥に、輝く温かい灯がともされました。そしてレビは17節に記されているイエスのことばをはっきりと悟ったのです。私に呼びかけ、召してくださるこの方は、私のような神の祝福や恵みから遠い存在、いや無関係に思っている、希望も未来も見えない者たちに向かって、呼びかけ、招くために来られたのであるということを。14節の終わりを見てください。「すると、彼は立ち上がってイエスに従った」のです。闇の中に座していた彼が立ち上がりました。イエスだけが、この空虚な心で生きていた人を立ち上がらせることができるのです。
 伝統的な理解によれば、このレビがマタイであり、後に「マタイの福音書」を書いたとされています。新約聖書には四つの福音書がありますが、その最初に位置しています。ですから、聖書に初めて接するほとんどの人が、まず初めに開くことになるのが、マタイの福音書です。そういう意味では、彼こそは、時代を超えて今も多くの人々を導き続けている、偉大な福音伝道者であると言って良いでしょう。


2,イエスは罪人たちに招かれるために来られた 

イエスを招くレビ

 イエスに「ついて来なさい」と呼びかけられ、弟子となったレビは、おそらく自分の家にイエスと弟子たちを招いて、食事をしました。しかも、彼は自分の大勢の仲間たち(彼らも罪人と呼ばれている人々でした)も招きました。言葉遊びのようですが、13〜14節においては、イエスがレビを招きましたが、15〜17節では、レビがイエスを招いています。つまり、罪人たちを招くために来られたイエスは、罪人たちに招かれるために来られたということになります。イエスに呼びかけられ招かれた者は、次にイエスを自分の生活の中に招くという応答へと至るのです。

他の人々を招くレビ

 そしてもう一つの彼の応答行為は、自分の家にイエスを招いて、さらに他の罪人たちを招いたことです。それは彼の信仰の表明であったということができるでしょう。ルカの福音書の並行記事に次のように書いています。「それからレビは、自分の家でイエスのために盛大なもてなしをした。取税人たちやほかの人たちが大勢、ともに食卓に着いていた。」(ルカ5:29)イエスに目を留めてもらい、呼びかけられ、受け入れられ、愛されたレビは、今度は、同じ愛をもって、他の人々に目を留め、呼びかけ、受け入れていくようになったことがうかがえます。そうしてレビの家は、おそらく賑やかで、いつも笑い声がこだまし、喜びがあふれていたことでしょう。このイエスを囲んで食卓をともにする家こそ、神の家族のかたちであり、のちの教会の原型を指し示すものとなったのです。