「安息日に麦の穂を摘む」

マルコの福音書 2:23-28

礼拝メッセージ 2020.8.30 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1.パリサイ人の主張

 麦畑で穂を摘み始めたイエスの弟子たちを見て、パリサイ人は言いました。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをするのですか(2章 23 節)」。パリサイ人たちは何を言いたいのでしょうか。

・落穂拾い

 イエスと弟子たちはこの頃、基本的にはガリラヤ地方を旅していました。そんな彼らは麦畑を所有していません。つまり、イエスの弟子たちは他人の麦畑で穂を摘み始めたのです。しかし、正しい行いを徹底していたパリサイ人たちが問題視したのは、このことではありませんでした。律法のなかに「落穂拾い」に関する規定があったからです。律法では麦の収穫について、「落穂を後から拾い集めても、畑に忘れた束を取りに戻ってもいけない」と定められていました。これは、貧しい者・在留異国人・みなしご・やもめなどが自由に拾い集めて、日々の糧を得ることができるようにするための規定でした。ですから、他人の麦畑に残されている麦の穂を摘むことは良しとされていたのです。

・安息日の規定

 しかし、イエスの弟子たちが麦の穂を積んでいたのは安息日のことでした。安息日には休息を取り、主への礼拝を守ることが、これもまた律法で定められていました。そして、この律法に伴い、休息の取り方についても厳格な規定が設けられており、労働に関する禁止事項がありました。火を起こすこと、薪を集めること、食事を用意することなどが出エジプト記の中で禁じられています。
 加えて、パリサイ人たちは口伝律法というものを持っていました。そこには安息日の労働に関する39の禁止事項が書かれており、そのうちの3番目に収穫の禁止があったのです。「安息日を犯す者は殺されなければならない(出 31:14)」と定められていましたから、イエスとその弟子たちの行動は、パリサイ人たちにとって決して容認できるものではありませんでした。


2.イエスの応答

・安息日は人のために設けられた

 イエス様は、旧約聖書に記されているダビデの行動を引用して、安息日の本来の意義をお示しになりました。ダビデはサウル王から命を狙われて逃亡しているとき、空腹であった彼は祭司アヒメレクにパンを求めました(Ⅰサム 21:1-6)。彼は逃亡生活を共にする若い者たちの空腹のためにも、食べ物を求めたのです。その時、アヒメレクのもとには普通のパンはなく、祭司しか食べてはならない聖別された「臨在のパン」しかありませんでしたが、ダビデはそれを受け取ったとあります。このダビデの行動は明らかに律法に反するものでしたが、旧約聖書はこの一連の出来事を肯定的に捉えているようです。
 パリサイ人たちはこの出来事を歴史的事実として信じていたでしょうから、聖書や律法を固く信じている彼らにとって、イエス様のこの引用にはおそらく返す言葉もなかったでしょう。どのような律法や規定にも、例外はつきものです。
 本来は人を守るために定められたルールが、いつしか人を攻撃するための道具として用いられてしまうことは珍しくありません。今日の教会や社会においても、しばしば見られることです。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません」というイエス様の言葉から、安息日をお定めになった神様の人間への深い愛を覚えたいと思います。

・人の子は安息日も主である

 それでは、安息日は人のために設けられたのだから、人が自分の思うままに過ごして良いのかというと、そうではありません。「安息日は人のために設けられた」という言葉が意味する「人」とは、もちろんすべての人を指しますが、なかでも特に「貧しい者・在留異国人・みなしご・やもめなど」のことを言っています。あるいは、「捕らわれた人・目の見えない人・虐げられている人(ルカ 4:18)」のことであるとも言えます。安息日という規定がなければ、このような人々は休むことができませんでした。
 イエス様は、「ですから、人の子は安息日にも主です」と言われました。「人の子」とは、ここではイエス様ご自身のことを意味します。当時、神が主であるのと同様にイエスが主であることを、人々はまだ理解していませんでした。しかしイエス様は律法で定められている安息日においても、主であられます。イエス様は安息日の本来の目的を正しく理解し、正しい判断を下すことのできるお方ですから、イエス様のなさることは安息日にかなっているのです。
 しかし、私たちはイエス様のような知恵も正しい判断力も持ち合わせていません。自分が自覚している以上に、私たちは傲慢で自己中心なのだと思います。だからこそ神様は私たちに、安息日には休息を取り、主を礼拝することでその独りよがりな「働き」から離れて主のみこころに心を向けることを願っておられるのではないでしょうか。だからこそ、私たちは安息日に主を礼拝する時を守っているのです。