マルコの福音書 4:1-9
礼拝メッセージ 2020.10.11 日曜礼拝 牧師:太田真実子
1.多くの「たとえ」を語られた
3章7節には、イエスのもとへ非常に多くの群衆が病気の癒しを求めて集まったために、小舟で湖に「退かれた」ことが書かれています。しかし、今回は群衆に語るために、舟に腰を下ろされました。湖のほとりに舟を出されて、そこから群衆に向かって、多くのたとえを語られたのです(1-2節)。その多くのたとえのうちの1つが、「種を蒔く人」のたとえでした。
このたとえ話に関する物語は3章20節まで続きます。まず、①イエスが湖のほとりで舟から群衆に向かって語られた「種を蒔く人」のたとえに関する記述があり(3-9節)、次にその後の出来事として、②たとえで語られた理由がイエスの弟子たちに語られ(10-13節)、そして続けて、③「種を蒔く人」のたとえの解説(14-20節)が記されています。
① 「聞く耳のある者は聞きなさい」
多くの群衆はおそらく、具体的にはイエスに病気を癒してほしいという願いから(もちろん、評判のイエスですから、イエスご自身の話にも興味があったのでしょうが)、みもとに押し寄せてきました。しかしイエスは群衆と少しの距離をおいて、湖のほとりに船を出し、そこから群衆に向かって多くのことを「たとえ」によってお語りになりました。そして、「種を蒔く人」のたとえが丁寧に取り上げられています。
注目すべきは、イエスは「よく聞きなさい」ということばから語り始められ、「聞く耳のある者は聞きなさい」ということばによって話を閉じられておられるということです。ですから、「注意深く聞く」ということが、このたとえにおける最重要点のようです。
② 「種を蒔く人」のたとえ
「種を蒔く人」が、種を蒔くために出かけます。その種は、あらゆる土地へ落とされていきます。どうやら、種を蒔く人は土地の状態を厳密に区別することはせずに、種を蒔いているようです。ある種は、⑴「道端」に落とされ、ある種は⑵「土の薄い岩地」に落とされ、また別の種は⑶「茨の中」に落とされたとあります。しかしいずれにおいても、様々な理由によって実を結ぶことはありませんでした(4-7節)。実を結ぶことができたのは、⑷「良い地」に落とされた種だけで、その種は芽生え、育って実を結び、30倍、60倍、100倍にもなりました(8節)。
2.「たとえ」とは
4種類の土地が登場しますが、落とされた「種」には違いがありません。「種を蒔く人」は、実を結ぶことが困難であると見られる土地にも種を蒔きました。「たとえ」を解釈しようとするときには、「寓喩的解釈」とは区別して読まなくてはなりません。「たとえ」はある1つのことを聞き手に印象付けたり、伝えたりするために、比喩を用いて表現します。ですから、そこに登場するすべての言葉がある物事を暗示していると寓喩的に解釈するのではなく、話し手が最も伝えたいと意図していることのみを受け取る必要があります。イエスがたとえを用いて語られた理由は、おもに次週の聖書箇所で言及されていますが、イエスは「種を蒔く人」のたとえによって、聴衆に「土地の状態の違い」に注目させ、2度に渡って「聞きなさい」と警告しておられます。
14節以降のたとえの解説においてイエスは、「種」とは「みことば」を意味していることを説明なさいます。つまり、「種を蒔く人」とは「みことばを蒔く人・伝える人」のことであり、「4種類の土地の状態」は、「みことばを受け取る人間の心の状態」を表していると言えます。私たちはこのたとえを聞いて、自分の心はどの土地の状態に当てはまると考えるでしょうか。クリスチャンであるならば、「良い土地」に種が蒔かれていると言えるでしょうか。
3.種を蒔く神の願いとは
イエスがこのたとえを通して群衆に伝えたかったとはなんでしょうか。「人には4種類の心の状態があるから、自分の心を『良い土地』にしなさい。そうでなければ実を結ぶことはできません。」という警告でしょうか。もしそうだとすれば、その適用として、私たちはどのようにして自分の心を「良い土地」にすることができるでしょうか。
私たちは、イエスの「聞く耳のある者は聞きなさい」という警告を、耳をふさがずに真摯に受け止める必要があります。しかしそれと同時に、「種を蒔いてくださるお方」にも目を留めたいと思います。みことばが蒔かれなければ、どのような良い土地であっても実を結ぶことはできません。神からの恵みは無条件であり、私たちに一方的に注がれるものであります。そして人が神を選ぶのではなく、神が人を選んでくださるのです。ですから、私たちが自ら「良い土地」を作り出し、その努力によって救いを勝ち取るのではありません。イエスが群衆に「聞きなさい」と警告されたのは、神は人々が自らの意志によって神を愛し、みことばに耳を傾けることを願っておられるのであり、そのこと自体が人々にとって祝福であるからです。
そもそも、「聞きなさい」と警告されたのは聖書においてイエスが初めてではありません。旧約時代から主は何度もイスラエルに「聞きなさい」と警告しておられます。「聞きなさい。そうすれば、あなたがたは幸せになる」と、主は繰り返しイスラエルの民に語りかけられました。主はイスラエルの民に、これでもかと言うほどに繰り返して、主を愛すること・主の教えから離れないこと・主がしてくださったことを忘れないこと、つまり「主に聞き続けること」を、イスラエルの民の幸せを願って警告し続けておられたのです。しかし、それにもかかわらずイスラエルの民は繰り返し主を離れてしまいます。それでは、そのイスラエルの人々の失態によって主が彼らを見捨てられたのかと言うと、そうではありません。主は決して見捨てず、離れないお方です。そのうえで、人々を愛するがゆえに「聞きなさい」と警告を与えてくださるのです。私たちは、イエスのことばに隠された深い愛に心を向けながら、「聞きなさい」という警告に対して応答していく者でありたいと願います。