「「種を蒔く人」のたとえの説明」

マルコの福音書 4:13ー20

礼拝メッセージ 2020.10.25 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,種を蒔く人は、みことばを蒔く(13〜14節)

たとえ全体の基礎となる話

 このたとえの説明を聞くことができたのは、イエスの「周り」にいて(4:10、3:34)、イエスに従っていた人たちだけで、「外」の人たち(4:11、3:31〜32)は、たとえ話そのものは聞けても、それ以上のことを聞けませんでした。しかし、13節の「このたとえが分からないのですか、そんなことで、どうしてすべてのたとえが理解できるでしょうか」を見ると、イエスの周りにいる人たちであっても、しっかりとみことばを受け入れていかなければ、実を結ぶことにはならないことを教えられたことがわかります。13節のことばによると、「種を蒔く人」のたとえは、全てのたとえの中で基礎的なものであるということ、基本となる話であるということを示します。逆に言うと、このたとえがわかることで、他のたとえを理解していくことができるようになるということです。

種は、みことばである

 説明の最初のことば14節「種蒔く人は、みことばを蒔くのです」は、短い文章ですが大切です。それはこのたとえの「種」が、みことば(ギリシア語ロゴス)を指し示しているということです。種は、茎や枝、花などの部分と比べると目立たず、小さいものですが、その固い殻の中に成長する「いのちの力」を宿しています。どんな大きな樹木でも、元は小さな一つの種から生まれたのです。種にいのちが秘められているように、みことばにも霊的いのちが込められています。このたとえは、そのいのちを持つ種が、地に蒔かれたという話です。種は蒔かれた瞬間から、それ自身が備えている成長のプログラムが動き出します。言わば、成長に向かうタイマーが開始するのです。止めることのできない時限装置のように時が刻まれていきます。人の目に見えなくとも、それは絶対的な力を持ち、日々働き続けています(使徒20:32、Ⅰテサロニケ2:13)。
種は地面の中に植えられますが、みことばは人の心という土壌に植えられます。みことばの種を人の心の中に植え付ける以外には、だれも神の国に入ることは出来ないし、その実りを経験することもできません(参照;Ⅱテモテ3:15,4:2、ヤコブ1:21、Ⅰペテロ1:23)。いのちのみことばの種を何とかして人々の心という土地に蒔き続けましょう。このあと見るように、それはすぐに結果が出ないことも多々あり、徒労に終わるようなこともあるでしょう。ですが聖書が示すこの霊的法則は、自然の法則と合致しているのです。それは蒔けば必ず収穫する、しかし蒔かなければ決して収穫することはないという法則です(詩篇126:5〜6)。


2,みことばの種が蒔かれた心の土壌(15〜20節)

なぜ実を結ばないのか

 種は神のことばですから、絶対に実を結ぶようになっているはずです。ところがそうなっていない、なぜなのか、イエスはこのことについて解説します。種が良くても、蒔かれる土地が悪ければ、健全に成長して、実を結ぶことはできないことを語っています。15〜20節で、種が蒔かれた四つの土地のことが語られます。道端、岩地、茨の中、良い地の四つです。最初の三つにおいて、なぜみことばの種が人々の心に蒔かれたのに、実を結ばずに終わるのかが記されています。このたとえの前提として覚えておくべきことは、種が芽を出し成長して実ることは全くふつうのことであり、それが驚くべきことでも、異常なことでもないということです。むしろ成長せず、実を結ばないことのほうが不自然であると、このたとえは語っています。

道端に蒔かれた種、岩地に蒔かれた種

 まず、道端に蒔かれた種ですが、彼らはみことばを聞いているが、すぐにサタンが来てそのみことばを心の中から取り去ってしまうと解説されています。道端であるから堅く固められた土地の状態のような心として説明されますが、そこまでのことを示しているのかはわかりません。ただ明確なことは、人がみことばを聞く時、それを持ち去る目に見えない霊的な存在がある、あるいは霊的戦いがあるということです。みことばを語る時も聞く時も、私たちが知覚し得ないものによって妨げられることがあるのです。御霊によって祈らなければならないのです(エペソ6:18〜20)。
次に、岩地です。この福音書で多用される「すぐに」がここでも出て来ます。「すぐに喜んで受け入れますが、…すぐにつまずいてしまいます」。その理由を「自分の中に根がない」としています。岩地であるから、根を下ろすことができないというイメージです。シモーヌ・ヴェイユが『根を持つこと』という本で、人間が職業、言語、郷土などに根を張って生きることの必要が脅かされている危機について説きましたが、それを借りて言えば、神のみことばの種も私たちの人生に根を下ろすことができず、根こぎにされてしまう危機に瀕していると言えるでしょう。さらに、この箇所で注意を引くのは、「みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずく」というところです。このことばを語った同じ口でイエスはその後、受難に際して、弟子たち皆がつまずくことになると言わなくてはなりませんでした(14:27)。後に起こる弟子たちのつまずきのことを主は予見され、予告的な戒めとして語られたのかもしれません。

茨の中の種、良い地の種

 三番目は、茨の中です。このたとえが示す心の状態は19節に記されています。「この世の思い煩いや、富の惑わし、そのほかいろいろな欲望が入り込んでみことばをふさぐ」と語られます。「みことばをふさぐ」と訳されていることばは、直訳すると「みことばを窒息させる」です。みことばが実を結ぶように育つためには、ある種の空間、ゆとりが必要です。それは生活に余裕があるとか、楽に暮らせるというようなことではありません。それが心配事であれ、金銭や様々な欲望であれ、とにかく頭の中をそのようなガラクタで一杯にせず、みことばが入っていける余地を持つということです。そういう心の姿勢を持つ必要があるのです。
 最後に、たとえの説明の結末を見ると、種は良い地にも落ちました。種は育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍になるのです。イエスの外側にいる人々も、周りにいる者も、良い地として受け取れる時が必ずやって来ます。蒔かれた種は、絶対的ないのちの力を持っています。それゆえに、神の国は、いつかこのように実を結ぶのだとイエスは忍耐をもって教え続けられたのです。