「「成長する種」のたとえ」

マルコの福音書 4:26-29

礼拝メッセージ 2020.11.8 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1.「神の国」の前進は、完全なる神の支配と主権による

 イエス様は「神の国」とはどんなものであるのか、「成長する種」にたとえて説明なさいました。人が種を蒔き、寝たり起きたりしているうちに、その種は芽を出し、成長し、最終的には多くの実を結び、収穫の時を迎えます。人は種を蒔きましたが、どのようにしてその種が成長したのかを知りません。イエス様は、「神の国」とは完全なる神の支配と主権によって成長させられ、前進されるものであり、それに対する人間の行動の成果は微々たるものであることをお語りになりました。
 このたとえのポイントは、成長する種について、「どのようにしてそうなるのか、その人(種を蒔いた人)は知りません(27節)」ということであり、「地はひとりでに実をならせ(28節)」るのだということです。「実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます(28節)と、成長していく過程における順序が述べられていますが、このたとえの重要な点としては、これらの順序自体ではなく、「人が知らなくても、神が主導権をもって、神のご支配の中で神の国を前進なさる」ことです。


2.神の働きよりも先行しようとする人々

 「神の国」とは、一般的に人間が死後に向かうとされる「天国」のような場所を想像されることがあるかもしれません。しかし、聖書には永遠のいのちについての記述が多数あるものの、世間一般が想像するような「天国」については明確に言及されていません。
 「神の国」とは「神の支配」と言い換えることができます。イエス様は宣教の働きの開始に、「神の国は近づいた」と宣言なさいました。新約聖書からは、「神の国」とは、「私たちが死後に向かう場所」というよりは、「地上におとずれ、いずれ完成されるもの」であると理解できます。神の支配は、すでに地上にもたらされていますが、それはまだ完全なものではありません。しかし、やがて必ず神の時が訪れて、完全なる神の支配がこの地上にもたらされるのです。イエス様は、この「神の国」を人々に宣べ伝えるために、宣教の旅を開始なさいました。
 私たちは文化や社会の状況に大きく影響を受けやすいため、自分の思い描く「神の国」には、イエス様が語っておられる「神の国」との思い違いがあるかもしれません。それは、新約聖書をまだ手にしていない2000年前の人々は、余計にそうであったことと思います。ローマ帝国の支配下に置かれ、圧迫を感じていたイスラエルの人々は、敵からの解放を与えてくれるメシヤを待望していました。イスラエルを中心とした国が固く築かれ、主が王座に着いてくださる。そのような神の国をイメージしていたのではないでしょうか。
 なかでも、「熱心党」と呼ばれた人々は、旧約聖書の神を熱心に信じ、他の宗教を排斥しました。それ自体は、旧約聖書で主がイスラエルの民に望んでおられることでもありますが、彼らは神の力による政治的な独立のために戦った人たちでもあります。福音書を見る限りでは、イエス様が彼らのそのような動きを称賛したような記述はありません。このたとえ話からはむしろ、彼らの望んでいたものと、イエス様が述べ伝えておられる「神の国」には食い違いがあり、彼らは自分たちの熱心によって、自分たちの思い描く神の国を前進させようとしたと言えます。しかし、イエス様がお語りになった神の国とは、人には知り得ないかたちで成長していくものであり、すべてを先導しておられるのは神であります。神の完全なる支配と主権によって、神の国は前進し、やがて完成に至るのです。


3. 神の支配のなかで、神に応答していく

 それでは、神の国は完全なる神の支配と主権によって前進するのであるからといって、私たちが全く何もしないで良いのかというと、そうではありません。イエス様のこのたとえを見るからには、人の力は限りなく無力です。しかし、だからと言って何もしていないのかというと、「人」は、「種を蒔(26節)」き、「寝たり起きたり」しています。場合によっては、水をやるなど、世話をする必要があります。私たちは、先導してくださる主のあとについて、応答することが求められています。これは、私たちのなすべきことではありますが、「なすべき」というよりは、「主が先導してくださる働きに加えていただける恵み」であると言えます。私たちにできることは微々たる働きですが、それでも主は私たちを「神の国」に参加させてくださるのです。
 「収穫の時が来た(29節)」ら、すぐに熟した実に鎌を入れなくてはなりません。この鎌を入れる人というのは、主であるのか、人であるのか、このたとえのポイントではないので明確にはわかりませんが、私たちはその「収穫の時」に、すぐに主に応答し、従って行く者であるべきです。私たちにとって「勇気ある行動」とは、危険を顧みずに目標や正義のために突き進むことではなく、自分には知り得ない将来のことも主に委ね、主導権を握っておられる主のあとについていくことです。