マルコの福音書 4:30ー32
礼拝メッセージ 2020.11.15 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,神の国の始まりは、からし種のように小さく見える
神の国をどのようにたとえたらよいか
「からし種」のたとえは、4章に書かれているたとえの最後です。いくつかのたとえが語られてその終わりがこのたとえになっていることも、おそらく意味のあることでしょう。イエスがたとえを使って神の国について語ってきた内容の一つの締めくくりと見て良いと思います。これまで2つの種を蒔く話が繰り返されてきましたが、その最後(三番目)が今回の「からし種」の話です。
30節の「神の国はどのようにたとえたらよいでしょうか。どんなたとえで説明できるでしょうか」とイエスは前置きされました。これはご自身がいのちを賭けて語っている「神の国」を人々になかなか理解してもらえないということに対するもどかしさを感じることばです。さらに、とてつもなく大きく、すばらしい神の国を人間にわかるように伝えることへの難しさをも感じておられたのかもしれません。振り返ると、これらのたとえでイエスが宣べ伝えた神の国というものが、最初の「種を蒔く人」(3〜8,14〜20節)では人の弱さゆえに困難もあるということ、「明かり」のたとえ(21〜22節)ではそれが隠れているように見えること、「成長する種」のたとえ(26〜29節)ではどのように成長するのかは人の目には見えないことが語られてきました。そしてこの最後のたとえでは、神の国の始まりはその結果と比べると、とても小さな存在にしか見えないことが教えられています。
極小粒の種
「もしからし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません」(マタイ17:20)とあるように、からし種は最も小さいものを表す象徴的なものでした。からし種とは、聖書辞典によると「クロガラシ」(ブラックマスタード)であろうと書かれています。もしそうならアブラナ科の二年草で、4〜5月に黄色い花が咲き、成長すると約2メートル以上にもなる植物です。マスタード(他にイエロー、ブラウン)の中でクロガラシは最も刺激と辛味が強いそうです。以前、イスラエル土産でこの種をパウチした栞をもらいましたが、1ミリ程しかない小さい種粒でした。
このたとえでは、そんな極小粒の種で始まる植物が成長すると、その種の大きさからは想像もつかないほど非常に大きくなることを語っています。その始まりと結果にのみフォーカスが当てられ、成長のプロセスは省略された話となっています。それは小さく始まって、偉大な結果をもたらすことになるということです。
すでに始まっている
イエスが話されていた当時の人々が、その話に対して、本当なのかという疑いを持っていたことは、今日の私たちの時代においても同じであると思います。聴衆はイスラエルの民です。彼らは出エジプトによって隷属状態から主の御業によって救い出され、約束の地に入って、国を造り上げました。ところが、社会不義と信仰の堕落で、他国によって攻め滅ぼされ、捕囚民となる憂き目に遭いました。その後、主の憐れみにより故国に帰還できたのもつかの間、ペルシャ、ギリシャ、そして今はローマあるいはヘロデの支配を受けていました。そこへ、ナザレのイエスと呼ばれる人が現れて「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」との声を聞いたのでした。それはとても小さく目立たない始まりでした。その時代において人々は、ローマ皇帝が神の子であると告げられており、帝国の支配を受けていました。それに挑むかのように、イエスはご自身が神の子、つまり王であること、そして主なる神が支配されることになると宣言されたのでした。何も始まっていないように見えるでしょうか。いえ、すでに始まっていると聖書は語ります。
2,神の国の完成は、とても大きな木のように見える
空の鳥が巣を作れる
からし種のように、それは今、どんなに小さく見えようとも、「蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張って、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります」(32節)とイエスは言われました。このたとえの32節のところは、実はイスラエルの人々にはエゼキエル書やダニエル書で語られていたことばを思い起こさせるものでした。たとえばエゼキエル書17章23節に「わたしがそれをイスラエルの高い山に植えると、それは枝を伸ばし、実を結び、見事な杉の木となる。その下にはあらゆる種類の鳥が宿り、その枝の陰に住む」、また31章6節には「小枝には空のあらゆる鳥が巣を作り、大枝の下では野のあらゆる獣が子を産み、その木陰には多くの国々がみな住んだ」とあります。
「その陰に空の鳥が巣を作れる」という表現は、ただ大きく成長することを言っているのではなく、国(その王の支配)が強大になり、主権が増し加わり、諸国、諸民族がその木の陰に宿るようになること、支配が地の果てにまで及ぶことを表しています(参照;ダニエル4:20〜22)。これを踏まえて、このたとえを改めて見ると、イエスが語られたことは、とてつもない内容であることに気づきます。
希望の種
これは人間個人にささやかな幸福が与えられるというような話にとどまるものではなく、国や民族という、もっと大きなレベルで、神の国がやがて全世界を覆い尽くすことになるということです。それがイエスという神の子である王の到来によって、もうすでに開始していると宣言されています。イエスの愛の支配は始まっているし、それに対して信仰の応答をもってあなたがたも従いなさいと、主は私たちに呼びかけています。このたとえは、神の国が私たちの真の生きる希望であると語っているのです。ですから、この一連の「種蒔き」のたとえが示す「種」とは、希望の種です。神が、イエスが、その種をすでに蒔かれ、神の国はすでに来ているし、完成に向かっています。私たちもこの希望の種によって力強く生かされていきます。この種はみすぼらしい種ではなく、すばらしい種なのです。1911年、内村鑑三が「デンマルク国の話」と題して今井館聖書講堂で講演しました。敗戦した国デンマークがいかにして復興できたかを語りました。敵国に復讐戦をしかけることなく、剣を鍬に持ち替えて、ダルガス父子の奮闘により、荒れ地に溝を掘って水を注ぎ、樅の木を植樹して、国を富ませたのです。「国を興さんと欲せば、木を植えよ」と内村鑑三は語っています。聖書のことばに戻るならば、私たちも神の国のために、主とともに希望の種を蒔き、木を植えたいと思います。