マルコの福音書 4:35ー41
礼拝メッセージ 2020.11.29 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,イエスがともにおられることの意味
「向こう岸へ渡ろう」
イエスは、ご自分の周りにいる弟子たちが慣れ親しんだ土地、ガリラヤ湖のこちら側の岸辺付近で長くとどまり続けることを良しとせず、前へ進むように働きかけていかれます。ちょうど、「皆があなたを捜しています」と言われた時に、イエスが「さあ、近くの別の町や村へ行こう」(1:37〜38)と言われて動かれたのと同じように、イエスは常に進んでいかれるのです。5章を見ると、その向こう岸は「ゲラサ人の地」で、ユダヤ人から見れば異邦人たちが住んでいるところです。彼らはイエスが言われるまま、向こう岸へと舟を向けて進んだのです。ところが、思いがけず、舟は激しい突風に見舞われ、たいへんな危機に陥ったのでした。これから何が待っているのかという不安と期待を抱いて進む途上で、予期せぬアクシデントでした。私たちが乗り出した2020年の旅は彼らと同じように、コロナ禍という嵐に遭って、大波をかぶり、船底はみるみるうちに水浸しになり、このままでは沈んでしまうと、不安と怖れを募らせるような日々を味わっています。そして大きな苦しみと恐怖に捕らわれて、弟子たちと同じことばが、私たちの口から発せられているのかもしれません。「イエス様、私たちが死んでも、かまわないのですか」(第三版では「何とも思われないのですか」)と。
「私たちが死んでもかまわないのですか」
この「私たちが死んでも、かまわないのですか」(38節)という弟子たちのことばは、イエスが船尾で眠っておられたゆえであると思います。私たちがこんな危機に瀕しているのに、なぜあなたは悠長に眠っておられるのですか、という怒りの抗議かもしれません。たぶん弟子たちはイエスをこうして起こすまでに、大声でイエスを呼んでいたかもしれません。祈っても、願っても、返事がない、主よ、私がどうなってもいいのですか、滅んでも何とも思わないのでしょうか、という叫びです。しかし、こうした状況の中、イエスが起き上がられて、風と湖を叱りつけ、彼らを救われた時、主が言われた言葉を見ると、このように彼らは不安や恐れで心をいっぱいに満たすべきではなかったし、失望すべきではなかったことが示されていると言えそうです。ロイドジョンズ師が「信仰とはうろたえないことである」と言っていますが、確かにそういうことなのだと思います。だからイエスは厳しいと思えることを彼らに言われました。「まだ信仰がないのですか」(40節)と。直訳すると「あなたがたはまだ信仰を持たないのですか」となります。ここまでともに歩んできた弟子たちなので、彼らとしては、信仰がない、信仰を持っていないと言われることは全く心外です、と平常時であれば反論したかもしれません。
この前の箇所からの続きであるとして読むと、イエスからたとえ話を通して、神の国について彼らは聞いてきたのです。また、その奥義をストレートに教えてもらっていました。学校の教室ですでに学習したかのように、彼らはわかっていたと思っていたし、口頭で聞かれたらちゃんと返答できる理解を持っていたと思います。しかし、この4章35節から5章にはイエスのなされる奇跡の話が続き、弟子たちが身を持って福音を信じて生きることを経験していくことが描かれています。彼らは、このとき、イエスがともにおられること、彼らの乗っている舟には、主がおられることを信頼しなくてはならなかったのです。たとい舟が沈みそうになっていても、イエスがともにおられることによる平安を忘れてはならなかったのです。
2,イエスとは誰であるのかという問い
「黙れ、静まれ」
そして、私たちはここで、イエスという方がどのようなお方であるのかを、これまでの病の癒やしや悪霊の追放といった御業に加えて教えられるのです。イエスは、風と湖に「黙れ、静まれ」と命じられました。すると、それまでのことが嘘のように風は静まり、大凪になったのでした。イエスは世界を治めておられる力ある主です。ここには三つのことが語られていると言われます。一つは、旧約聖書ヨナ書で、ヨナが海に投げ捨てられて嵐が静まったように、自らその身を捨てて、神の御怒りをなだめるお方であることを示しています。二つ目に、モーセが海を二つに分けて水の流れをせき止め、エジプトで奴隷であった民を歩み行かせたように、イエスは海を制して人々を救い出し、自由と解放を与えるお方であることを示します。三番目に、当時、湖や海が悪魔の住むところと信じられ、黙示録13章で冒涜的な獣が立ち現れる場所であったことを思うと、主がサタンや悪霊をご自身の御力をもって制圧される勝利者であられるということです。
「この方はどなたなのだろうか」
風や湖を聞き従わせる主の奇跡の出来事に遭遇して、彼らはそれまで嵐の中での恐れを持っていたのですが、41節を見ると、「彼らは非常に恐れて」(直訳「非常な恐れを恐れた」)とあるのは、もはや嵐や身の危険を感じたことへの恐れではなく、イエスというお方に対する恐れの念に転換しているように見えます。この福音書を読み進めると、弟子たちはその後、イエスに対して恐れを抱くようになったことが記されています(6:50,9:32)。そしてこの福音書最後の不可解な結末と言われているところも、イエスの復活の出来事に遭遇した女たちが、恐れを抱いたことで終わっています。「彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(16:8)。「恐ろしかった」「恐れた」で、この福音書は閉じられています。
そうして主への恐れをもって彼らは「この方はどなたなのだろうか」と、イエスが誰であるのかを問い始めるのです。41節の「互いに言った」の「言った」はギリシア語では未完了過去のかたちで書かれています。未完了過去は、それが過去に始まり、そのことが今も続いているというニュアンスがあります。つまり、彼らはこのときから、イエスという方がどなたであるのかと問い始めることになったのです。「信じます。不信仰な私を助けてください」(9:24)と主に告白した父親のように、主の弟子は信仰がない、信頼できていないという自覚、自省を繰り返しつつ歩みます。そして様々な出来事の中で「この方はいったいどういう方なのだろうか」と仰天し、この方の凄さや激しさに圧倒され、本当に恐ろしく感じられる経験をしてイエスを再発見していくこと、それが主を信じ、福音を信じて生きるということなのです。