「マリアの賛歌」

ルカの福音書 1:46ー55

礼拝メッセージ 2020.12.6 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,マリアの賛歌が問いかけるもの

マリアが賛歌を歌えたのはなぜか

 アドベントということで、この聖書箇所を選びましたが、現代のコロナ禍の状況にあって、この箇所を読むことの意味は何であろうかと考えてきました。しかし、このマリアという人の人生を思うと、決して楽天的な思いを持って、このように歌ったのではなかったと思います。私たちとはまた違って意味ではあったかもしれませんが、そこには不安と戸惑い、容易には見通せない未来がありました。ご存知のように、マリアがこのあと辿っていくことになる救い主の母となる人生は、決して平坦な道のりではありませんでした。マリアはこのあと、結婚前で妊娠したことから周囲から誤解を受けました。しかし婚約者ヨセフと何とか結婚し、出産に備えていましたが、人間的に見れば折り悪く、住民登録のため身重のからだでありながら長旅をさせられました。出産のときには生まれたばかりの子どもを飼い葉桶に寝かせなくてはなりませんでした。出産後も子どもの命が狙われて、遠くエジプトに避難しなければなりませんでした。その子が成長し、宣教の歩みに入ってからは、人々から狂人扱いされるのを聞かなくてはなりませんでした。そしてその子はやがて捕らえられ、あまりにもむごい処刑現場にまで立ち会わなくてはならなかったのです。彼女はその心が剣で刺し貫かれる(2:35)ような幾多の経験をしなければならなかったのです。

マリアは「幸いな者」と呼ばれている

 しかし、ルカは、そのようなことをすべて知った上で、次のように記録したのです。マリアという人は本当に幸いな者であると。受胎告知で御使いガブリエルは「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」と告げました(1:28)。彼女の親類のエリサベツは「あなたは女の中で最も祝福された方。」と呼び(1:42)、「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです」(1:45)と語りました。そしてマリア自身も「ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう」(1:48)と賛美しました。不安と怖れ、そして先の見えない未来を抱える現代であるからこそ、どうしても聞かなくてはならないことばが、確かにここにあると思います。マリアが受け取れた神の幸いは、私たちにも分け与えられているのです。


2,賛美の理由:主は自分に目を留め、大いなることをされた

主の御前での自己認識

 さて、マリアはなぜ賛美することができたのでしょうか。なぜ自らのことを「幸いな者」と言えたのでしょうか。この賛歌を見ると、その理由が大きく言えば二つ記されています。第一の理由は、主がこのような自分に目を留めて、大きなことをしてくださったからであると語っています(48〜49節)。第二に、主が世界に力強い御業をなしてくださったからであると証ししています(50〜56節)。
 ここでマリアは自分のことを「卑しいはしため」と語っています(48節)。「はしため」とは女奴隷のことです。奴隷であるだけでも低い立場なのに、それに加えて「卑しい」とまで言って自らのことを呼んでいます。これは彼女自身が、置かれていた境遇や社会的立場のこともあったでしょう。経済的に貧しい家庭だったのかもしれません。また、このあと婚姻前に身ごもることによる誤解や中傷を受ける予想もあったのかもしれません。けれども、おそらく一番大切なことは、神である主の前での自分という信仰的な認識です。神の御前に出ると、私たち人間がまとっている、あらゆる人間的な着物や飾りは剥ぎ取られるのです。そこには人間社会で通用する肩書や、立場、財産も何も存在せず、裸でみじめに立ち尽くす、あわれな罪人の姿だけとなります。マリアはそこで信仰の告白をもって、わが救い主なる神をあがめ、ほめたたえるのです。こんなに小さな自分に、偉大な神である主が目を留めてくださったことを喜ぶのです。今、あなたがどのようなところにあるとしても、どんな状態であるとしても、主はあなたに目を留め続けてくださいます。

この方なくしては自分が存在し得ないほどの方

 「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます」と始まっているところを見ると、最初のことばは「あがめる」です。日本語で「あがめる」というのは「上がる」から来ているそうで、上のほう、手の届かない高い所にあるものとして相手を仰ぎ見る、尊敬するという意味で、どちらかと言えば上下、高さのイメージです。しかしギリシア語のほうでは「大きくする(拡大する)」(メガルノー)ということばが使われ、大小という大きさのイメージです。それが49節の「私に大きなことをしてくださった」という表現に繋がっています。自分にとって、非常に大きな存在、この方なくしては自分が存在し得ないようなお方、それが主であり、救い主である神です。そういうお方をマリアが持っていることのゆえに、彼女は自らを「幸いな者」と言って、主をたたえることができたのです。アウグスティヌスは「告白録」という有名な書を残しましたが、その書き出しは「あなたは偉大です。主よ」(マグヌス・エス・ドミヌス」でした。真の賛美と感謝は、主というお方を最も大きな存在として認め、愛すること、そこから始まるものです。ですから、マリアの賛歌を通して、今一度、心に覚えたいことは、あなたは神である主を、何にもまして、最も大きな存在として歩んでいるかということです。あなたにとって最も大きな存在と言えるものが、他のものならば、マリアの持っていた幸いをまだ手にしていないことになります。


3, 賛美の理由:主は世界に力強い御業をなされた 

 51節から54節までは、「彼(主)が〜した」という文章が繰り返されています。「主が力強いわざを行った…追い散らした…引き降ろした…高く引き上げた…満ち足らせた…追い返された…助けた」。過去形の「〜した」と書いていますが、昔の時代だけを言っているのではなく、むしろ神がこれから世界になさろうとしていることを歌っています。かつてエジプトで奴隷であった民が、主の偉大な御業によって導き出されて、彼らはもはや奴隷ではなく、「聖なる国民、王である祭司」とさえ呼ばれたのでした。マリアは、高ぶる者や権力者、富む者たちを追い散らし、引き降ろし、追い返される、と語りました。このように賛歌は、古い秩序が完全に覆されて、新しい世界が始まる真の希望を告げています。この大きな未来に目を向ける時、賛美が湧き上がるのです。