「ザカリヤの預言」

ルカの福音書 1:67-79

礼拝メッセージ 2020.12.13 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1.バプテスマのヨハネ、誕生物語

 「ザカリヤの預言歌(1章68〜79節)」は冒頭の“ほめたたえる”という言葉から、「ベネディクトゥス(ラテン語で“ほめたたえる”)」とも呼ばれています。年を重ねていたザカリヤは神の前で祭司の務めをしていた時、妻エリサベツが男の子を産むことになると、突然主の使いから告げられました。そして、その男の子は「父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意(17節)」する者となると言うのです。ザカリヤは恐怖と驚きのあまり、「この私は年寄りですし、妻ももう年を取っています(1章18節)」と返答しました。主のことばを信じなかったので、それが実現するまで彼は口を聞くことができなくなりました。
 エリサベツの胎に男の子が与えられてから出産までの間に、親戚のマリアという娘が聖霊によって聖なるお方をみごもったことが分かります。マリアに再会したエリサベツが「私の主の母が私のところに来られるとは(43節)」とほめたたえていることから、マリアがみごもっているお方と、自分に与えられた子、それぞれの立場や役割を彼女はよく理解していたようです。
 3ヶ月ほどマリアと過ごしたエリサベツは、その後、主の使いがゼカリヤに告げたとおりに男の子を出産しました。「神の前に正しい人(6節)」と称されながらも、年を取るまで子どもが与えられなかたこの夫婦の出産は、近所の人たちや親戚にとっても、主のあわれみを覚える大きな喜びであったことがうかがえます(58節)。
 人々は、父の名にちなんでザカリヤと名付けようとしました。しかし主の使いがザカリヤにヨハネと名付けるよう命じていたことを知っていたエリサベツは、男の子の名は「ヨハネ」であると主張します(13節)。当時、父の名を子が受け継がなくてはならない決まりはなかったようですが、父の名を取って命名する習慣も普及していたことから、待望の子にはなおさら父の名を与えるのが良いと思ったのでしょうか。どこから来たのか分からない名を付けようとするエリサベツに、人々は困惑したようです。人々は戸惑いながら口の聞けないザカリヤにも確認を取りますが、彼もエリサベツと同様に、「その子の名はヨハネ」であると書き板に記して、あたかも以前から「ヨハネ」であることが決まっていたかのように(事実、そうなのですが)、命名しました。そして、ザカリヤの口が開かれて、ものが言えるようになり、彼は主をほめたたえたのです(64節)。
 これらのことの一部始終は、ユダヤの山地全体に語り伝えられました。そして、「それを聞いた人たちはみな、これらのことを心にとどめ、『いったいこの子は何になるのでしょうか』と言った。神の御手がその子とともにあったからである(65、66節)」とあります。ヨハネの誕生物語は、単なる噂話というよりも、「そこに神の御手があり、神がともにおられる」ということの認識とともに広く語り伝えられ、神がなさろうとしておられることに人々の興味を惹きつけるものとなったのです。


2.ザカリヤの預言歌

 「いったいこの子は何になるのか」と、当時の福音書の読者、そして私たち読者の好奇心が駆り立てられたところで、続けてザカリヤの預言歌が始まります。ザカリヤは聖霊に満たされて預言しました(67節)。

敵から御民を救い、贖い出してくださる主(68〜75節)

 ザカリヤの預言は、68〜75節と76〜79節の大きく2つに区切ることができます。前半では、救いを与えてくださる主をほめたたえています。それは、かつて父祖たちをあわれみにより贖い出され、聖なる契約を交わされた主が、そのことを覚えておられて、再び御民を救い出してくださるというものです。

 「救いの角(69節)」という表現は、角が力を表していることから、「救いをもたらす力」、文脈からは「メシヤ」を意味していると言えます。主はかつてアブラハムを選ばれ、彼と彼の子孫への祝福を約束なさいました。アブラハムの子孫とはイスラエルのことです。イスラエルの民がエジプトで奴隷となっていたとき、主は彼らを贖い出し、約束の地へと向かわせました。そこへ定住するようになり、時が経ってイスラエル王国が南北に分裂し、ついには外国から捕囚されイスラエル王国が滅亡した時にも、主はもういちど彼らを贖い出し、約束の地へと再び連れ戻されたのです。
 このイスラエルの歴史の中で民は何度、主の恵みを忘れ、主を捨ててきたことでしょうか。それにもかかわらず、主はアブラハムへの祝福の約束のゆえにイスラエルをあわれみ、救っておられたのです。さらに主はアブラハムへの約束に基づいてご自分の民のために、ダビデの家に「救いの角」すなわちメシヤをお立てになり、再び民を贖い、お救いになることを、預言者たちの口を通してお語りになっておられました。

 このような主の偉大な贖いの歴史と預言者たちのことばを知っていたザカリヤにとって、自分たち夫婦の子がその贖いの歴史に加えられるという思いもよらない主のご計画は、どれほど嬉しかったでしょうか。いつ、どのようにしてその「救い」がもたらされるのか、厳密なことについては誰も知る余地はありませんでしたが、たしかにこの時代に「救い」がもたらされようとしていました。そして、そのことをザカリヤは預言し、主をほめたたえました。

平和を導くいと高きお方と、その預言者ヨハネ(76〜79節)

 後半部分は、「幼な子よ」という呼びかけから始まるように、幼な子ヨハネに焦点が当てられています。ここから、ヨハネの役割やメシヤに対する彼の位置付けが分かります。ヨハネは、「主の御前を先立って行き、その道を備え、罪の赦しによる救いについて、神の民に、知識を与える」。それゆえに、彼は「いと高き方の預言者」であると語られています。そしてまた、このことは神の深いあわれみによるものであるとたたえています。

 キリストがこの地上に遣わされたのは、主が時代も場所も状況もすべてを整え、備え、定めてくださった主の時であり、その備えの中で主はヨハネをお遣わしになりました。もちろん、この時代の人々が主に信頼して歩んでいたために、主がこの時代をお選びになり、救いをお与えになったのではありません。キリストの誕生も、ヨハネの誕生も、それはアブラハムへの約束をいつまでも覚えておられた主のあわれみであったとしか言えません。
 あわれみに満ちた主に私たちが応答できることと言えば、ザカリヤとエリサベツが主の戒めを守り行い、主の救いの約束に信頼して主をほめたたえたように、私たちも神の贖いの歴史において御父とキリストがなしてくださったことを心に留め、主のみおしえを守り従い、イエス様が宣べ伝えてくださった神の国の完成を信頼することではないでしょうか。キリストの到来にあたり、人々の心にはヨハネを通して備えが必要であったように、私たちも神の国の完成に向けて心を備え、主のみおしえに聞き従い、主の働きに参与していく者でありたいと願います。