「ナザレで受け入れられない」

マルコの福音書 6:1ー6

礼拝メッセージ 2021.1.17 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,イエスを拒絶する世界の中で

 イエスはご自分の故郷に行かれるのですが、故郷に錦を飾るどころか、全く歓迎されず、むしろ拒絶されてしまいました。主のお気持ちを考えると、非常に悲しいことであったと思います。そればかりか、これからこの福音書が描いていくことは、当時の人々がこのイエスを拒み苦しめて、彼を捨て、最後には殺してしまいます。この福音書全体が読者に呼びかけていることですが、人が真正面からイエスに向かい合うとき、避けて通れない問いがあります。あなたは神に対して、神の福音に対して、それを受け取り信頼してイエスに従うのか、それとも拒否するのか、どちらですか、という問いです。この箇所はそれを拒絶してしまった人々のことと、その反応に驚かれているイエスの御姿が描かれています。私たちも、イエスを拒絶する世界、主を歓迎しない中に生きる者として、この箇所からよく考えたいと思います。


2,イエスを拒絶する人々の心とは

どこから得たのか

 イエスの故郷ナザレの人々は、安息日に会堂で教えられたイエスのことばを聞いたり、そこで行われた癒やしなどの奇跡を目の当たりにしたのですが、2〜3節を見ると、二つのことをもって彼らが信仰に立つことができず、つまずいてしまいました。一つは「この人は、こういうことをどこから得たのか」(2節)という疑問です。そしてもう一つは「この人は大工ではないか」(3節)ということばです。まず、「どこから」あるいは「何なのだろう」というのは、当然の疑問であるのかも知れません。理解し難いことを聞いたり、目にしたりしたら、その謎を調べたり、探究することは間違ったことではありません。しかし彼らは調べもせずに自分の頭の中にある前提や考えだけで判断し、イエスを拒否してしまったのです。彼らはユダヤの人々ですから、この教えは神から来ている、このわざは神の御力によって行われていると受け取ることもできたはずでした。ルカの福音書の並行記事(ルカ4:16〜30)によれば、ここでイエスが教えられたところはイザヤ書61章でした。イエスは旧約聖書のことばを語り教えられました。そこには神の権威に裏打ちされた力と恵み豊かな語りかけがあったでしょう。彼らもべレアの人々のように、「非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べ」ることもできたはずでした(使徒17:11)。それなのに、この人は誰から教えてもらったのか、このような力をどうして得ることができたのか、という好奇心から生まれる詮索にとどまりました。真剣な探究は信仰に至らせますが、興味本位の詮索は誤解と拒絶しか生み出しません。

この人は大工ではないか

 「大工ではないか」ということばは、イエスが祭司でも律法の教師のような、人々を教え導く者ではなく、われわれと同じ一般の人にすぎないという意味です。「マリアの子で」という表現が意味するところには二つの可能性があります。一つは、マリアの夫であったヨセフがこのときすでに亡くなっていたということです。ここにはイエスの兄弟姉妹たちのことが書かれています。少なくともイエスのほかに6人の兄弟姉妹がいたようです。もしヨセフが早くに亡くなっていたとすると、多くの兄弟を抱える家族の長兄として、イエスは早くから働いて家計を助けていたのではないかと想像できます。主は額に汗して日々労働し、幼い兄弟たちを見ておられたのでしょう。「マリアの子で」ということばが表すもう一つの可能性は、イエスがヨセフの子ではなく非嫡子で、マリアと別の人との間に生まれたという悪口です。誰の子であるのかわからない私生児ではないかという差別的表現です(参照;ヨハネ8:41)。だとすれば、これはひどい中傷であり、冒涜です。いずれにしてもナザレの人々にとって、イエスの近くに住んでいたことは何の益にもならなかったのです。地理的あるいは空間的距離が必ずしも信仰的な距離に比例することはありません。むしろ、彼らは近すぎて見えず、捉え損ねたのです。3節の終わりに「こうして彼らはイエスにつまずいた」と書かれています。「つまずく」ということばは、スキャンダルということばの語源になりました。ギリシア語辞書によると「罠を仕掛ける」というのが元々の意味で、その名詞形の語は「罠の餌を付ける棒」のことを指すそうです。人を信仰においてつまずかせる、罠を仕掛けるのは何であるのか、サタンなのか、この世なのか、と考えてしまいますが、おそらくそれだけでなく、自らのうちにあるプライドや欲望ではないでしょうか。「人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです」(ヤコブ1:14)。彼らのつまずきは、探究することなく、先入観でイエスを判断し拒絶したこと、そして彼らの高慢や欲の心が原因であったのです。


3, イエスを拒絶した結果がもたらすもの

主のみわざの妨げ

 イエスへの拒絶がもたらすものは、そのみわざをストップさせるということです。「そこでは、何も力あるわざを行うことができなかった」(5節)。これはイエスの御力が、信仰深い人々の間であると発揮され、そうでないとパワーダウンしてしまうというようなことを言っているのではありません。神はこの世界の状況や人間のあり方によって力が制限されるようなお方ではなく、なさろうと思えば、どんなことでも行う力をお持ちです。しかし、この箇所の状況を考えてみると、人々は頭からイエスを否定し、好奇の目で見ること以上のことがありませんでした。このような中で、もし主が奇跡を多く行えば、主の正しいご目的や意図が何も伝わることなく、一時的好奇心や熱狂に終わってしまいます。信仰の求めのないところでは、神のみわざや奇跡は全く無益なものになってしまいます。主を拒絶する彼らの不信仰がそのみわざを妨げることになったのです。信仰無き奇跡は人を愚かにし、祈りなき達成は人を高慢にするのです。

イエスの驚き

 イエスの拒絶がもたらしたもう一つのことは、イエスを驚かせたということです。「イエスは彼らの不信仰に驚かれた」(6節)と、この箇所は結んでいます。新約聖書によれば、イエスが驚かれたことを記している出来事は二回だけです。この箇所と、もう一つは異邦人の百人隊長の信仰の立派さに驚かれた記事です(マタイ8:5〜13ほか)。私たちの信仰が、どちらの驚きを主にもたらすことになるのか、考えながら歩みましょう。