「十二人を派遣する」

マルコの福音書 6:6bー13

礼拝メッセージ 2021.1.24 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,イエスは十二人を呼び、二人ずつ遣わされた

 イエスは彼らを宣教のために遣わすにあたって、いくつかのことをなさったことが書かれています。まず、主は彼らを呼び寄せられました。7節「十二人を呼び」ということばです。イエスは派遣する人たちを選び出され、呼び寄せられたのです。表題にもありますように、ここには「弟子」という表現を使わず、「十二人」とだけ記されています。おそらく神が選ばれたイスラエルの十二部族を象徴する人たちとして、「十二人」が派遣されたのです。彼らは3章13〜19節で任命された「十二人」のことでしょう。でも名前も記さず、あえてただ「十二人」と記すことによって、主にあってマルコは読者にこう呼びかけているように聞こえます。あなたもその「十二人」の中にいる者としてイエスに遣わされて生きるのですよ、と。
 そして彼らは「二人ずつ」遣わされて、「汚れた霊を制する権威」を与えられました。一人ではなく、二人であることによって、宣教は孤独な働きではなく、チームで行われる務めであることを示されました。伝道者の書にあるように、「一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる」のです(伝道者4:12)。そして、彼らには主からの権威が授けられました。この権威というものは、何か証明書やバッジのようなかたちがあった訳ではなかったのです。それは目に見えない霊的権威であり、信仰によってのみ威力を発揮できるパワーでした。彼らがそれを受けていた証拠が12〜13節にその効力の結果として記されています。


2,イエスは十二人に何も持たずに行くように命じられた

 次にイエスは彼らに注意するようにいくつかの命令を語られました。8〜9節で旅のための装備について、10〜11節では伝道の振る舞いについて、それぞれ指示を与えられました。まず、旅の準備です。この宣教旅行がどれくらいの期間であったのかわかりませんが、不思議な注意書きです。ふつう旅行に出るときは、持って行くべきものを事前に準備し、そして入れたかどうかをチェックして出かけるものです。しかし、イエスがここで仰せられた旅の装備はそれとはまるで反対です。極端を言えば、何も持って行くな、手ぶらで行けと言っているようなものです。欽定訳聖書では8節の部分を「ノー・スクリプ(袋)、ノー・ブレッド(パン)、ノー・マネー(お金)」と訳しています。日本語では「パンも、袋も、胴巻きの小銭も持って行かないように」となっています。なぜ、このような注意を主は与えられたのでしょうか。
 この指示には二つの意図があると言われています。一つは、宣教の緊急性のためです。ここに書かれていることとは逆に、もしこれが必要、あれも必要というような条件があったなら、持っていない物を揃えたり、準備するために時間がかかってしまいます。またそれを買う費用がかかります。そうであれば、行けと言われても、これが無いので少し猶予を与えてくださいということになるでしょう。しかし、主の宣教の働きは、そんな悠長なことを言ったり、言い訳をしている余裕を一切与えてくれません。行けと言われたら、今すぐ行かなければならない、そういう性質のものです。それが宣教ということです。まさに問答無用の命令なのです。
 そしてもう一つの点は、主への絶対的な信頼を持つためということです。彼らは何も持って行かないことによって、自分の持っているものに頼ることはできません。そこで主は語りかけるのです。あなたの必要を知り、それをあふれるばかりに満たすことのできるのはわたしである。わたしにのみ頼れ、すべての与え主である神に信頼せよ、と。山上の説教でイエスが言われたように「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」(マタイ6:33)という信仰が、遣わされる者たちに求められるのです。この緊急性と絶対的信頼に立つ彼らの覚悟と生き方が、当然のように相手に伝わることになり、生き生きとした証しを示すことになったと思います。


3, イエスは十二人に人々の応答に従って行動するよう命じられた

 さて、10〜11節の指示です。「どこででも一軒の家に入ったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまりなさい。あなたがたを受け入れず、あなたがたの言うことを聞かない場所があったなら、そこから出て行くときに、彼らに対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい」。現代では見ず知らずの人を家に泊めるようなことをする人はなかなかありませんし、それは危険なことと考えられていますが、昔の時代は、旅の者を迎え入れることがよくなされていたようです。それに彼らはイエスに遣わされた者として、宣教のことばと癒しの力を携えている使徒として、迎え入れられました。受け入れられた家で、彼らはその家の人々と一緒に食事をし、交わりを持ち、ともに多くの時間を過ごしたのだと想像できます。そこで、彼らは「悔い改め」を語り、「悪霊を追い出し」、病人に「油を塗って」治療してあげたのです。確かにある人々は、彼らを受け入れ、彼らの言うことを聞き、幸いな救いの恵みにあずかったはずです。
 しかし11節のことばにあるように、彼らを受け入れない人々がいたようです。彼らを拒み、追い出す人たちがいることを主は予めご存知でした。そこで語られたのが「彼らに対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい」ということばです。ユダヤ人は異邦人の土地に入ったとき、足のちりを落として、その汚れを払いのける習慣があったそうですが、それと同じ行為をするように主は命じられました。このような行動の命令は、先程の持って行く物の注意が意図することとはまた違う意味での主の厳しさ、厳粛さといったことを感じるのです。足の裏のちりを払い落とすというのは、もうあなたがたとは関係がないという、宣教する者の側から相手への決別を示す行動です。もう十分にあなたに伝えた、悔い改めを説いた、けれどもあなたはそれを受け取ろうとはしなかったのだから、私はあなたに対する血の責任は負わない。あなたが神のさばきの前に立つことになっても、私は十分に自分の務めを果たしたのだという、証言のように見えます。そのようなことであるとするなら、私は周りの人たちに対して、この国の人たちに対して、もう十分と言えるほどに主に遣わされた者としての責務を果たせているのだろうかという自問に導かれます。パウロ的に言えば「返さなければならない負債」(ローマ1:14第三版)は、もうないのだろうか、という思いになります。主に遣わされた者として生き、今ここで、ともに宣教のわざに励もうではありませんか。