「バプテスマのヨハネ、殺される」

マルコの福音書 6:14-29

礼拝メッセージ 2021.1.31 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


バプテスマのヨハネの死

 イエスに洗礼を授けたヨハネが死んだ経緯について述べられています。イエスの活動が広まり、その評判はヘロデの耳にも達しました。ここでのヘロデとは、イエスが生まれた当時にユダヤ地方を統治していたヘロデ王とは違います。ヘロデ王の息子で、名をヘロデ・アンティパスと言いました。実際には王ではなく、ガリラヤ地方を治める領主でした。ヘロデはイエスについて聞いたときに、人々の噂に賛同するように「ヨハネが生き返った」と言っています。それはヘロデがヨハネを殺したからであり、マルコ福音書は回想する形でヨハネの死について語り始めます。
 ヘロデはその兄弟ピリポの妻ヘロディアと結婚したとあります。しかし、この時代に生きたユダヤ人ヨセフス(『古代誌』)では、ヘロディアはピリポの娘になっており、ヘロデは姪と結婚したことになっています。当時の歴史的な状況には分からないことが多くあります。ギリシアやローマの法律ではこのような身内の結婚は認められていたようですが、ユダヤの律法では(例外を除いて)禁じられていました(レビ18:16)。そこでヨハネはヘロデを告発したのです。ヘロデはそれを大した問題として扱わなかったようですが、妻ヘロディアはヨハネに恨みを持っていました。そこで彼女はヨハネを殺す機会をうかがっていたのです。ヘロデは誕生日の祝宴を催しました。そこでヘロディアの娘(ヘロデの義理の娘)が余興で踊って見せます。ヘロデは義理の娘に褒美を約束しますが、母ヘロディアの意を汲んだ娘はヨハネの首を要求するのです。そこでヘロデは臣下にヨハネの首をはねさせ、その首を盆にのせてヘロディアに献上させてしまいます。ヨセフスの記録にはサロメという名の女性がヘロディアの娘として登場しますが、このヨハネの首を求めた娘と同じ人物とされて伝えられています。多くの絵画の主題とされていることは有名です。
 ここで考えておかねばならないことは、このヨハネの死に関して突然のように記されていることです。イエスがナザレに帰還した時から見ればヨハネの死は過去のことであり、もっと以前に記されていても良かったはずです。


殉教の死

 ヨハネの死に関する記述の前後にヒントがあります。この記述の前には、弟子たちが派遣され、その活動が進んでいく様子が述べられています。記述の後には、この弟子の派遣の結果について報告されています。つまり、マルコ福音書のストーリーは、6章13節から30節に直接につながっており、ヨハネの死の記述は挿入になっているのです。このような形のときは、挿入部はストーリーと関連付けて考えると良いでしょう。
 ヨハネの死は自然死ではありません。政治的な意味で殺害されたのです。それは、神の正義を貫こうとした死であり、殉教としての死でもありました。このような死は、実はマルコ福音書の重要な主題になっています。福音書のテーマはイエスの生涯を描き、その意味を伝えることにあります。イエスの生涯はその十字架の死に向かっていくことを特にマルコ福音書は強調しています。イエスの死は贖罪と理解されますが、それ以前に理解しておかねばならないことがあります。イエスは神の意志を語り実現するために宣教の働きを行いました。しかし、それは当時のユダヤ教の指導者やローマ政府から見れば危険に映りました。そこで、権力を持った人々はイエスを殺害しようとしたと福音書は語ります。実際に、その計画は成功してイエスは無実の罪で十字架の上で殺されます。神に従い、その業を行う者が殺されてしまうという矛盾がイエスの生涯に描かれています。殉教としての死がそこにはあるのです。ヨハネの死は、神に従う者が暴力によって殺されたというイエスの死と重ね合わされています。


弟子の覚悟

 そしてマルコ福音書は、イエスに従う弟子たちの姿をも書こうとしています。弟子たちはイエスによって派遣されましたが、そこにはイエスと同様の経験が待っています。そのことをつねに覚悟しておくべきことをマルコ福音書は繰り返し述べます。この福音書が描く弟子たちはそのような理想的な人々ではありません。イエスを理解せず、自分たちの考えを先行させるような人々です。イエスの死には逃げてしまい、従うことに覚悟していません。だからこそ、マルコ福音書はイエスの弟子であろうとする者に問いかけます。従う覚悟はありますか?厳しいですが、その問いかけは私たちにも向けられていることは確かです。従うことを考え、遣わされていきましょう。