「五千人に食物を与えるイエスの権威」

マルコの福音書 6:30-44

礼拝メッセージ 2021.2.7 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1.イエスが与えてくださる休息

 イエスに汚れた霊を制する権威を授けられ、2人組になって遣わされた12人の使徒たちが、活動を終えてイエスのもとに戻って来ました。そして集まり、その活動内容(人々が悔い改めるように宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒したこと等)を詳細に報告しました(6章7〜13節)。
 すると、イエスは使徒たちに休息を取るように勧めます。そこで、彼らだけで舟に乗り、人里離れたところへ向かいます。ところが、しばしの休息の間さえ遮るかのようにして、イエスたちの評判を聞きつけた大勢の群衆たちが先回りし、一行を待ち伏せていたのです。もちろん、群衆たちはイエスたちに休息を取らせまいとしてそのような行動に出たのではありません。相手の状況を考慮する余裕もないほどに、イエスを求めたいたのでしょう。イエスは、彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので、深くあわれみ、多くのことを教え始められました(34節)。羊が身近な存在であった当時のマルコの福音書の読者であれば、どうすれば良いのか不安になり、右往左往して道に迷ってしまう羊飼いのいない羊の姿が容易に想像できたことと思われます。
 弟子たちの中には、こうして群衆たちに長話を始められたイエスを見て、休息の時が遮られたことにがっかりした者もあったかもしれません。ここで私たちが心に留めたいのは、イエスは休息の必要性を否定してはおられず、むしろ勧めておられるということです。そして、「いかなる時も、休息を取らずに人の必要に応える」ということを、弟子たちに強要しているわけではないということです。
 身体の疲れは、活動量や体力、体調などによって大きく左右されます。しかし心の疲れは、必ずしも活動量に比例してはいません。心に安らぎや平安がなくては、活動を続けることは困難です。安らぎや平安がないまま動き続けるならば、その活動内容がいかに素晴らしいものであったとしても、本人にとっては大変苦しいものとなってしまいます。ですから、私たちは疲れを覚える時、イエスのもとで休息の時を過ごすことを、1つの仕事のように大切にし、イエスによる安らぎと平安をいただいてから、次に進んでいきたいものです。


2.弟子たちの最も合理的な提案

 日が暮れてきた頃、弟子たちが「もういい時間なので、周りの里や村で各々が食事をとることができるように、このあたりで群衆を解散させたらどうか」と提案しました。この提案はもっともであるように思います。これ以上お腹を空かせたままイエスの話を聞き続けてしまっては、その時は良いかもしれませんが、後になって食事や帰路に困り、疲れ果ててしまいます。どう考えても、弟子たちの提案が全員にとって良いのです。

 ところが、マルコの福音書は、このような弟子たちの態度をいわゆる“不信仰”な様として表現しているようです。この後の展開を知っている人であれば、イエスと弟子たちの会話を見ていると、「弟子たちはどうしてまだ悟ることができないのか」とさえ思ってしまします。
 それは、イエスは5千人、もしくはそれ以上の数の群衆を満腹にさせることのできるお方だからです。イエスは弟子たちが持っていた5つのパンと2匹の魚を手に取り、天を見上げて神をほめたえ、パンを裂き、人々に配るように弟子たちにお与えになった。そして、みな食べて満腹したと書かれています(41、42節)。書かれていること以上の詳細は全く不明ですが、マルコの福音書は、5千人もの男性を満腹にさせることのできるイエスの権威について証言しているのです。
 弟子たちの提案は、イエスの権威を除外して考えれば、最も合理的でした。提案の内容も、悪いものでないはずです。しかしイエスは、「あなたとともにいるこのわたしがだれか分からないのか」と言わんばかりに、弟子たちの心をご自分へ向けさせようとなさいました。イエスは、弟子たちがご自分の権威を頼りにすることを図々しいとは思っておられません。むしろ、ご自分の権威に頼るようにと、イエスの側から弟子たちを招いておられるのです。


3.現実世界においても、主に頼り、明け渡すこと

 弟子たちが現実的な問題を思い煩い、イエスのそばで安心して、イエスにすべてお任せすることができなかったことには、共感を覚えるところがあります。しかし弟子たちはこの時、イエスに授けられた権威を持って任務を全うし、イエスのもとに帰ってきたばかりであったはずです。少々の時間が経過し、ある程度は心が落ち着いていたにしても、つい先ほどまでは興奮状態にあったのではなかったでしょうか。イエスの権威が人知を超えたものであることは、身をもって経験していたはずです。それでも、現実的な問題に直面した時、彼らはイエスの権威を自分たちの頭から除外して、彼らなりの合理的な考えをイエスに提案したのです。
 12人の使徒たちがイエスに遣わされ、イエスから離れて活動していた期間は、彼らにとって現実でありながらも、ある意味で非日常的な時間であったかもしれません。また、彼らにとって、イエスと過ごす時間はどこか現実と非現実の狭間のような感覚であったかもしれません。私たちも、聖書を読んでいる時は深く感銘を受けたり、教えられたりしながらも、聖書の世界と日常生活を無意識のうちにも分離して考えてしまっていることはないでしょうか。聖書の物語を真実なものとして受け取りながらも、現実的な問題に直面した時には、「イエスとは私たちのはるか遠くにいて、私たちの背後で見守ってくれている存在である」というように、自分の考えを先行させて、イエスという存在を小さくしてしまってはいないでしょうか。
 現実的で合理的な考えが一概に悪いのではありません。私たちが生活していくためにはなくてはならない考え方です。しかし、そのような考えを進める時にもいつも、イエスは神の子としての権威をもっておられ、この現実世界においていつも私たちとともにいてくださるお方であるということを覚えて、様々な思い煩いをイエスに明け渡していきたいものです。