「湖の上を歩くイエス」

マルコの福音書 6:45ー52

礼拝メッセージ 2021.2.14 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,イエスは良き羊飼いである

揺れる舟の中で

 湖の上で弟子たちが嵐に遭い、それをイエスが助けられるという話は4章に続いて二回目です。4章ではイエスは舟の中で眠っておられました。この6章では舟の中におられず、別の場所におられました。ピンチの時に、イエスがおられない、あるいは眠っているということで、頼るべきお方の不在で、弟子たちの信仰が揺さぶられました。 現在はコロナ禍の中にあり、私たちの誰もが揺れる舟の中で過ごしているかのような状態です。舟は向かい風にさえぎられて、漕いでも漕いでも一向に前へ進まず、それどころか舟が転覆してしまうのではないかというような不安を抱え、疲労だけが蓄積しています。本日の箇所では、そうした中で生きている弟子たちに対して、イエスがどのようなお方であるのかを明らかに示して、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れるな」と語られています。ここに見られる出来事を通して、イエスが良き羊飼いであり、神の臨在を示すお方であることがわかります。イエスは真のメシアであり、被造世界を支配される王なのです。

無理やり舟に乗り込ませ

 良き羊飼いとして弟子たちを養い、訓練し、整えていかれるイエスが45~46節に見られます。最初に「イエスは弟子たちを無理やり舟に乗り込ませ」られました。この「無理やり」とは、強制的に人に何かをさせる、というかなり強い表現です。どうしてイエスは無理やりに彼らを舟に乗せて先に送り出されたのでしょうか。31〜32節を見れば明らかです。主は弟子たちに言われました。「さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい」。それで弟子たちは舟に乗って寂しいところへ行ったのですが、群衆が彼らを追いかけ、その休息はお預けになってしまったのでした。イエスは、無理やりにでも彼らを舟に乗り込ませ、あとはわたしが群衆を解散させておくので、あなたがたは先に舟に乗ってゆっくりせよと仰ったのでしょう。弟子たちに対する主の深い愛の配慮を示す行動です。

祈るために山に向かわれた

 そしてご自分はそのあとどうされたのかと言えば、祈りのために山に上られたのです。主は祈りを通して、御父との豊かな交わりを持たれ、そこで弟子たちのために、この世界のために祈られたと思います。特に弟子たちのことを案じておられたのでしょう。その山から湖のほうをご覧になって、イエスのまなざしは弟子たちの乗っている舟に注がれていました。 そして彼らの窮状を知って山を下り、彼らのもとへ向かわれました。こうした様子からも、イエスの祈りが弟子たちに対するとりなしであったことが伺えます。この湖上の弟子たちと山におられるイエスとの対比的な情景は、出エジプト記32章でモーセがシナイ山で石板を授けられる場面を思い起こさせます。イエスはまさにモーセのごとく、弟子たちのためにとりなしの祈りを御父に捧げておられたのです。


2,イエスは神の臨在を示すお方である

湖の上を歩いて

 湖の上を歩かれるというのはどう考えても不思議なことですし、主のなされた奇跡であるとしか言いようがありません。しかし、マルコの福音書はその奇跡を知って、弟子たちをはじめ読者である私たちにこの現象そのものに対して驚きや恐れを持つことを期待したのではないと思います。48節後半に「(イエスは)湖の上を歩いて彼らのところへ行かれた。そばを通り過ぎるおつもりであった」と書かれています。この湖上を歩くという奇跡が示している意味を知ることが必要です。 思い出しておかなくてはならないことばがあります。それはヨブ記9章です。「神はただひとり天を延べ広げ、海の大波を踏みつけられる」(ヨブ9:8)。「海の大波を踏みつけられる」とは、創造主である神が自然界(被造世界)を完全に支配しておられ、御力をもって治めておられることの表現です。イエスが湖の上を歩かれたことは、当時の人々に恐れられていた未知の世界である海を踏みつけることによって、神の子としての権威を受けておられたことを示しています。

通り過ぎる

 イエスが風や海もご自身の意のままに支配することができる神によって立てられた代理者とあることをこの出来事は示しています。イエスは神に立てられ、神に愛されている「神の子」メシアであるということです。そのように理解すると、次のことについても意味がわかります。イエスは弟子たちの舟のところへ行かれたのに、「そばを通り過ぎるおつもりであった」と書かれていることです。なぜ通り過ぎようとされたのかについて、確かにいろいろな解釈があります。たとえば、弟子たちを見過ごしにされることで訓練のために放置されようとした等。しかし一番考えられる見方は、この「通り過ぎる」というあり方が、神の顕現(エピファニー)を示すものであったということです。先ほど見た出エジプト記32章の続き33章を見ると、モーセはそのあと神の栄光あるご臨在に接しますが、岩の裂け目に置かれて、そこを神の栄光が通り過ぎました(出エジプト33:20〜23)。この「通り過ぎる」というのは、旧約聖書で神の臨在を表す行動でした。イエスは神の臨在を示すメシアとして現れてくださったのです。


3, イエスがどのような方であるのかを弟子たちは悟れなかった

 イエスが彼らにとって良き羊飼いであられ、神の臨在を示すお方であることを弟子たちは、この出来事や五千人の給食などから悟れたのでしょうか。結果は「彼らはパンのことを理解せず、その心が頑なになっていたからである」(52節)と結ばれています。8章14〜21節で、イエスは弟子たちにこう言われています。「まだ分からないのですか、悟らないのですか。心を頑なにしているのですか」(8:17)。彼らは何も悟れなかったのです。 弟子たちは、イエスに対して、あるいはメシアのイメージについて、こういうお方であるとの強い思い込みがあったのかもしれません。彼らが持っていた強い固定観念から抜けられず、イエスがなさる行動を見ても、そのことばを聴いても、ただ驚いたり、おびえたりするだけで、真の意味を何も悟れなかったのでした。私たちも心を頑なにせず、霊的感受性が鈍感にならないように気をつけ、いつも新しい心と思いをもって主のことばに向かい、聞き従っていきましょう。