マルコの福音書 6:53-56
礼拝メッセージ 2021.2.21 日曜礼拝 牧師:南野 浩則
病の苦しみ
ゲネサレという町にイエスと弟子たちは到着します。ゲネサレはガリラヤ湖西岸の町で、イエスが住んでいたカペナウムからもそれほど遠くない所にあります(45節で、イエス一行が目指したベツサイダとはカペナウムを挟んで反対側にある)。すでにこの地方の人々はイエスについての評判をよく知っており、とくに病人を癒す働きをイエスがしていることに期待を寄せていました。そこで、人々は病人をイエスのところに連れてきたのです。病を得た人々は、肉体的・精神的・社会的な苦難を経験していました。それは、病人たちだけでなく、その家族などにも多大な影響を及ぼしたはずです。病から解放されることは、肉体的な苦痛から解き放たれるだけでなく、それに付随するさまざまな問題から解放されることでもありました。それは今でも変わらないでしょう。確かに、医療のレベルはイエスの時代とはまったく違います。当時は治らなかった多くの病が治癒できる時代となりました。しかし、病にともなって多くの苦難が生まれくることは現在でも確かなことです。病人はもちろん、そこに関わる人々がイエスに治癒を期待したことは想像するのに難しくはありません。病人自身もそうですが、病気の人々に関わっている人々も必死だったと推測できます。
イエスと癒された者との関係
イエスは積極的に人々の期待を拒絶しようとはしませんでした。病人を寝かせて、イエスが着ている衣の裾に触らせてほしいと願いました。触るだけで癒されると考えたからです。そして、触れた病人たちは実際に癒されたとあります。この記述は、長血を患った女性が黙ってイエスの衣に触れて、その病が癒された出来事を思い起こさせます。ゲネサレでの癒しの出来事には、癒した者(イエス)と癒された者たち(病人やその家族・面倒を見ている人々)との人格的な関りについて詳しくは述べていません。しかし、人々はイエスに単純に期待し、イエスはそれに応えていったことは分かります。相互の信頼が“期待”として表現されていると見てとっても良いと考えられます。
神の支配と奇跡
イエスは多くの癒しの奇跡を行ったとマルコ福音書は語ります。それは、「神の支配(国)」が到来したことを指し示していると理解されています。イエスの宣教の最初の言葉は「神の支配(国)が近づいた」であるとマルコ福音書は証言しています。「神の支配(国)」とは、神の価値観が成り立っていることです。それは、神に仕え人に仕える生き方であり、互いに尊重し合って助け合う生き方です。イエスの働きと神の価値観とを分けて考えることはできません。しかし、「神の支配(国)」の性格として、癒しの奇跡はともなわなければならないのでしょうか?逆に言えば、奇跡がなければ「神の支配」は到来したことにはならないのでしょうか?奇跡が起きても、それがつねに神を信頼し従うことに人々を導くとは限りません。奇跡によって人を欺くことはあり得ます。自己の利益のために奇跡を利用することもあるでしょう。奇跡を起こす人を利用しようとする人々も現れます。他の箇所で記されているイエスの「沈黙命令」は、イエスが人々から利用されることを拒絶する言葉と解釈できます。一方、奇跡がなくとも「神の支配(国)」はこの世界に広められ、浸透していきます。奇跡がなくとも、人々はイエスに信頼し従い、その価値観を実現するように努めることができます。それが教会による宣教の歴史でした。例えば、私たちメノナイト・ブレザレン教会は奇跡的なことを強調してはきませんでした。もちろん、神の奇跡的な権能を否定しているのではありません。奇跡そのものに福音の最も重要な意味を見出してこなかっただけです。むしろ、イエスの言葉や行動に重きを置き、その生き方に従おうとしてきました。
世界の価値観からの解放
イエスの癒しの奇跡は、人々を苦しみから解放することに意味があります。そこから人々は「神の支配(国)」に招かれていくのです。この世界は神に創造されたとされながら、現実にはその支配を脱して、神の価値観に従わず、好き勝手なことをします。そのためにこの世界は人々を利用するのです。人々はこの世界にこそ幸せがあると思わされ、世界の価値観(パウロはそれを“諸力”と表現しています)に従っていきます。そして、人々は互いに苦しめ合い、他者を抑圧し、搾取するのです。イエスはご自身のやり方(癒しの奇跡)で、この世界がもたらす苦しみ・抑圧・搾取から人々を解放しようとしました。私たちは私たちに委ねられた方法で、人々を神の価値観に生きるように招けば良いのです。