ヨハネの福音書 20:24-29
礼拝メッセージ 2021.4.4 日曜礼拝 牧師:南野 浩則
トマスのことば
イエスの顕現の物語は、新たな展開を見せます。男性の中で選ばれていた十二人の弟子の中で、トマスだけが復活したイエスには出会っていなかったようです。そこで他の男性の弟子たちはこのトマスに対して、「私たちは主を見た」と言って復活のイエスを証言します 。ここでトマスはその証言に対して懐疑的な言葉を発します。ただトマスが特に疑い深いかどうかは何とも 言えません。真剣な弟子たちの言葉の前にそれを受け止めようとしても、死者が復活すると言うことは尋常ではありえないからです。彼はある面、「正直に」自らの疑いを語ったと言えるでしょう。トマスの言葉は印象的です 。イエスの身体に残されているはずの傷(手の釘の跡、わき腹の槍の後)が復活の証拠となります。その証拠が必要であるとトマスは言い、同時に、自分は信じないという宣言でもありました。
イエスとトマスとの交わり
八日後、今度はトマスも他の男性の弟子たちと共にいました。イエスはトマスに対して直接に言葉をかけます。トマスに、自 らの手の傷とわき腹の傷を触って確認するように勧めます。それが復活としてのイエスの証拠であり、トマスは直接にその証拠を確認できる立場にありました。しかし、ヨハネ福音書には、トマスが実際にそれらの傷に触れたとは述べていません。イエスを見て、「私の主、私の神よ」と言って、イエスであることを確認します。イエスとの人格的な交流によって、自らの主であるイエスを認識することができたのです。
イエスはトマスに「信じない者にならずに、信じる者になりなさい」と語りかけ、「見ずに信じる者は幸いである」と言います。これは、トマスヘの招きの言葉として理解しておきたいのです。なぜトマスが最初にいなかったという問題はあるにせよ、他の弟子たちにも同じようなことが起こる可能性はありました 。トマス個人の問題というよりも、やはり弟子たち全体のことを考慮した記述であり、「信じるように」という弟子たちへの招きの言葉であると言えます。
「見ないで信じる者」
ヨハネ福音書では「見える」ことと「信じる」ことの関係を繰り返し語られます。このトマスをめぐる記述において、その答えが最終的に与えられていると言えるでしょう。「見て信じる」ことはあろうが、「見ないで信じる」ことを優先的に捉えています。「見る」とは客観的な証拠付けです。自らが確認するや経験することで、信じることができます。その経験が信じることの証言ともなります。実際、ヨハネ福音書の中でも、イエスの奇跡を通して人々はイエスを信じるに至ることが記されています 。ですが、すべての人々がイエスと実際に会うことはできませんでした、その奇跡的な働きを経験することもありませんでした。ヨハネ福音書は紀元後100年頃に記されたとするならば、イエスの生涯・死・復活から70年は経過しており、イエスと出会った人々が生存してはいたでしょうが、大半は実際にはイエスに出会ったことのない人々でした。見たことのない人を信頼 することは常識では難しい、あるいはそのような人に信頼するかとうかという発想も生まれてこないでしょう。このヨハネ福音書を読んだ人々の中にいた、実際にはイエスに出会わなかった人々、それは私たちと同じです。その人たちが「見すに信じる」しかないのと同様に、私たちも「見ずに信じる」しかないのです。しかし、実際に会ったことのない人、見たこともない人が私の人生に関わり、救いの道を備えているとするならば、私たちはとうすればよいのでしょうか?昔に帰ってその人を見ることができないのであれば、その人に関する証言を聞き、その人が信頼に価するかどうかを判断しなければなりません。その意昧は、その人に関する証言が全て「正しい」と証明されたから信じるのではなく(そんなことは不可能である)、その人の考えや行ったことに共鳴し、その人に従おうとすることです。もちろん事実関係を確認する 努力は必要ですが、それはイエスに従うという目的より優先されるものではありません。イエスが語り、実現しようとした行動に行従うこと、それに第一の焦点があることを覚えたいのです。