マルコの福音書 8:22-26
礼拝メッセージ 2021.4.18 日曜礼拝 牧師:太田真実子
1.はっきりと見えるようになった盲人の目
イエス様たち一行はベツサイダに到着しました。ベツサイダとは、ガリラヤ湖の北に面した地域の地名で、アラム語で「漁師たちの家」という意味があります。そこは、イエス様の弟子となった漁師のアンデレやペテロ、ピリポたちの故郷でした。
すでにイエス様の権威を見聞きしていた人々は、盲人を連れてイエス様のもとへやって来て、彼にさわってくださるよう、お願いしました。するとイエス様は彼の手を取り、村の外へ連れて行き、目がはっきりと見えるようになさいました。イエス様の癒しのわざは、神の権威なしにできるようなものではありません。しかし私たちはこの記事から、イエス様の癒しの権威だけではなく、盲人に対するイエス様の深いご配慮を見ることができるように思います。
① 苦しみに触れられるイエス様の慈しみ
イエス様の言動ひとつひとつの理由については何も説明がなされていないので、解釈に過ぎないと言わざるを得ない範囲ではありますが、第一に、盲人の両目に両手を当てて癒されたことから、イエス様はその人の苦しみにふれて、慈しんでくださるお方であると言えるからです。
他の癒しの箇所とも共通して言えることですが、イエス様は患部に直接触れて、癒されました。イエス様ほどのお方であれば、患部に触れずとも次から次へと簡単に癒すことができたかもしれません。しかしイエス様はその人の苦しみに直接触れて、人格的な交わりをなさいました。盲人にとって、イエス様によって目が開かれたこの経験は、イエス様のお人柄に触れた時でもあったように思います。
両目に唾をつけるという方法には少し驚いてしまします。唾を吐くこと自体は現代においてだけではなく、聖書中においても相手を嘲ったり辱めたりすることを意味しています。しかし、唾をつけるということには、自然療法的な意味もあったと考えられます。ですから、ここでは盲人に屈辱を与えるような意味はなく、むしろイエス様との親密な交わりがあったように思います。
② 盲人を村の外に連れ出したイエス様のご配慮
第二に、イエス様が盲人の手を取って村の外に連れ出されたことから、盲人と人々に対するイエス様のご配慮を見ることができます。人々が盲人をイエス様のもとに連れてきたのは、もちろん善意のことであったでしょう。しかし、人集りでは結果的に彼が見世物状態になってしまいかねません。イエス様は、人里離れた村の外で彼の苦しみに触れ、癒しをお与えになったのです。イエス様とこの盲人は2人きり、あるいは少人数の環境で、どのような時間をすごしたでしょうか。人々がイエス様に注目している村の中よりも親密な関わりを持つことができたのではないかと想像します。
また、盲人を村の外に連れ出したのは、村の人々に対するイエス様のご配慮でもあったことが考えられます。イエス様は盲人の目を開かせた後、彼を家に帰らせて、「村には入って行かないように」と言われたのです。イエス様はこの箇所以外でも度々、ご自分のなさったことについて口止めをしておられます。それは、イエス様の公生涯における最大の目的が人々の肉体の癒しそのものではないため、人々が癒しのわざに心を奪われすぎてしまうことへのご配慮と、ご自分の使命を全うすることを優先させたがゆえのご判断であったと考えられます。イエス様の旅路には、人々へのご配慮と、苦しみへの慈しみ、そしてご自分の使命に対する忠実な心がいつもあったことを思わされます。
2.ぼんやりとしか見えていなかった弟子たち
8章22〜26節には、盲人の癒しの奇跡だけが取り扱われており、盲人の目がイエス様によってぼんやりと開かれ、最終的にははっきりと見えるようになったことが書かれています。この出来事を読むとき、イエス様の神の子としての権威や、盲人への深い慈しみを思わされると同時に、イエス様の弟子たちの心の目はどうだったかという疑問も浮かんできます。それは、イエス様のそばにいながらも、「まだ分からないのですか、悟らないのですか。心をかたくなにしているのですか。目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか(8章17•18節)」と直接イエス様から叱責されていることからも分かるように、弟子たちの心の目が開かれていない様子が散々記された直後に、盲人の癒しの奇跡が書かれているからです。
この盲人の癒しの出来事がそのような意図でここに配置されているのかどうかは定かではありません。しかし、マルコの福音書を連続的に読んでみると、イエス様に出会い、1度目にはぼんやりと見えるように目が開かれ、2度目にはっきりと見えるようにされた盲人の姿は、まだぼんやりとしかイエス様を見ることのできていない弟子たちの姿を思い起こさせているようにも受け取れます。イエス様と出会い、イエス様に従っていく決心をした人であるならば、イエス様がはっきりと見えているとは限らないのです。
イエス様は、「もっと神の恵みを知ってほしい。恵みのなかで歩んでほしい」と私たちに願っておられるかもしれません。目を開くことができるのは、自分ではなく、イエス様です。神様の恵みを見る心の目を開いてくださいと、イエス様に信頼して、祈り求めていきましょう。