マルコの福音書 8:31ー38
礼拝メッセージ 2021.5.2 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,「あなたはキリストです」と告白すること
この少年に取りついている汚れた霊がどれほど強力であったのかを父親が語っています。「その霊が息子に取りつくと、ところかまわ「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」(29節)とイエスは弟子たちにお尋ねになりましたが、この質問が当時の人々だけでなく、これを読むすべての人々に対する問いかけであることが、今日の聖書箇所を読んでいくとわかります。もちろん、この質問に対する答えはペテロがしたように「あなたはキリストです」ということになるのですが、この問いはクイズのように正しい答えをすればそれで正解となるような性質のものではありません。イエスに向かって、「あなたはキリストです」と返答することはそう答える人にとって、その後の生き方全体にわたって大きな変化をもたらすことになる重大な決断となることを、31節以降のことばが明らかにしているのです。なぜなら、第一に、キリストは、多くの苦しみを受け、捨てられ、殺され、三日後によみがえり、次に父の栄光を帯びて再び来られ、さばきをされるお方であるからです。第二に、イエスがあなたにとってキリストであると認めるとき、この方のあとに従うかどうかの決断を迫られるからです。
2,キリストは、苦しみを受け、捨てられ、殺され、よみがえり、再び来られる方である
苦難を通られるキリスト
今から2000年前、ユダヤの人々にとって、「キリスト」(ヘブライ語でメシア)とは、神が永遠の昔から約束され、預言されてきた油注がれた力強き王のことでした。エジプト、アッシリア、バビロニアなど諸国から攻められ、支配されて来た彼らにとって、その圧政から解放し、真の自由と平和をもたらしてくださるお方として長く待ち望まれていたのでした。弟子たちはこれまでイエスとともに歩んで来た中で、この方こそ自分たちが待ち焦がれてきた方、キリストに違いないと思い、ここで「あなたはキリストです」と答えました。
しかし、その告白のあと、イエスは彼らにとって意外なことを語られました。キリストであるこのわたしは、「多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならない」(31節)と、「はっきりと話された」(32節)のです。このことばによって、弟子たちが持っていたキリストのイメージが壊され、彼らは大きなショックを受けました。弟子たちを代表してペテロが受難予告と呼ばれるこれらのイエスの教えに対して、あろうことかイエスをおいさめしたのです。そこでイエスは反対にペテロと弟子たちを厳しくお叱りになりました。33節で言われた中で注目したいのは「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」という文章です。人間の視点で見てはならない、神の御心、ご計画として、キリストを見なければならないことを教えられました。31節で「よみがえらなければならない」と文末にありますが、この「〜しなければならない」ということば(ギリシア語でデイ)は、4つの動詞にすべてかかっています。すなわち、多くの苦しみを受けなければならない、捨てられなければならない、殺されなければならない、よみがえらなければならない、です。これが「神のこと」(33節)であるとイエスは言われています。人間が理想として思い描く救い主ではない、イエスは神の御心によって遣わされた神のメシアであるということです。
御父の栄光を帯びて来られるキリスト
この箇所全体を見ると、もう一つキリストがどういうお方であるのかを指していることばがあります。それは、31節で使われた「人の子」という語が、再び使われている38節の文です。本日の聖書箇所全体はこのことばに挟み込まれています。「人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき」とあります。31節と合わせてみると、キリストは十字架にかかられ、三日後によみがえりますが、次に御父の栄光をもって再びこの地上に来られる、再臨されることが明らかにされています。短くまとめると、十字架、復活、再臨です。38節では「恥じる」と書いていますが、これは主がそのように見て判断される、審判を行うことを表しています。イエスのお語りになるキリストとは、ここでは「人の子」と言われましたが、この方はさばき主として再び来られて、全世界をお治めすることになるのです(参考;13:26、ダニエル7:13〜14)。こうしてみると弟子たちが最初に考え、イメージしていたキリストとはおそらくかなり違っていたことでしょう。
3,「あなたはキリスト」と告げることは、この方に従うことである
さて、このようなキリストのことを知って、イエスに向かって「あなたこそキリストです」、「イエスよ、あなたは私の主です」と告げることは、私たちの行動や生き方に大きな変革をもたらすことになるのです。それは告白であり、宣言となるからです。マルコの福音書はここで、キリスト者とはキリストを知って信じるだけの人のことではなく、キリストに従い、その歩みにならう者であることを明らかにするのです。31節の受難予告と34節の命令のことばには明らかな並行関係があることにお気づきであると思います。人の子であるキリストは、苦しみを受け、捨てられ、殺されるのですが、キリストに従って行く者も、自分を捨て、自分の十字架を負うように言われます。「自分を捨てる」とは自分を粗末にしたり、滅私奉公せよとの意味ではありません。だれでも自分のことを大切にしなくてはならないのですが、自分を大切にする最終目的が自分のことで完結させないということだと思います。それが他の誰かのために自分が存在を与えられていることを自覚して生きること、さらにそれが究極的には神のために生きるというゴールに繋がっていることを知って歩むことでしょう。33節でペテロに「下がれ」と言われましたが、この命令は詳しく訳すと「わたしのうしろにあなたは去れ」となります。そして34節で「わたしに従って来たければ」とは、これも直訳すると「わたしのうしろに従うことを欲するならば」となります。つまり、どちらも「わたしのうしろに」とイエスは言われています。ペテロや弟子たちはイエスに立ちはだかるようにして「イエスの前に」立ったのです。でもそうではなく、「イエスのうしろに」従いゆくように歩むことが、このお方をキリストとして告白して進んでいくことなのです。弟子として私たちは「イエスの背を見つめて」(加藤常昭師)歩むのです。キリストに従う歩みは苦しく、険しい道として、尻込みしてしまうかもしれませんが、35〜37節でキリストに従い、いのちを失う道こそが逆にいのちに至り、いのちを救う道であることを明らかにしています。それはしかし、真の喜びの道であり、楽しき旅路です。「重荷もなく迷いもなき旅路ぞ楽しき/ともにいますキリストこそ/わが身の神なれ」(新聖歌354番)です。