「財産からの自由」

マルコ福音書 10:17-31

礼拝メッセージ 2021.7.4 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


富める男性との出会い

 一人の男性がイエスに話しかけます。少なくとも福音書に登場するパリサイ派や律法学者のような罠を仕掛けるものではなさそうです。ここでの質問のポイントは、永遠のいのちを継承するために何をすべきかと言うことです。イエスはこの質問に対して、少々意味不明な返答をします。次に、ユダヤ教徒として守るべき戒律・規則が挙げられます。ここでのイエスの質問は、男性の考え方を引き出す役割となっています。これらの社会的規則を守ってきたとの自負をこの男性は示します。実際に守ったのかどうかは別にして、永遠の命を求めることにおいて真面目であり(宗教的側面)、人間関係においても真剣な取り組みもしてきました(社会的側面)。
 イエスはこの男性に対して、財産をすべて売却してそれを貧困に苦しむ人に与えるように勧めます。天に宝を積むとは、神がこの地上において実現しようとする神の価値観を、私たちが実現していくことを意味しています。その上でイエスに従うように勧めます。しかし、それはこの男性が富める者であったので、イエスの要求に応答できずに落胆の内に立ち去ってしまいます。


弟子たちへの教え

 イエスは、「富を持つ者が神の国に入るのは難しい」と言い、弟子たちはこの言葉に驚きを見せます。イエスが生きた社会でも、富は神の祝福の象徴であり、富を持つ者が神の国から排除されると言う発想は無かったのでしょう。弟子たちの驚きは、ある特定の人々が救いに預かれないと言う驚きではなく、神の国に近いと考えられていた人々がその実は神の支配から遠いことです。ラクダの譬での弟子たちの驚きは、金持ちが神の国に入れないのであれば、貧乏な人々はいっそう救われないという考えに基づいています。神の救いは神によってのみなされる、そんな希望がイエスによって語られます。28節で主題そのものが転換します。イエスの弟子たちはすべてを棄ててイエスに従ったと言います。教会に対する迫害が示唆されています。イエスのために、あるいは宣教のために家族や財産を失っても、それに対する報いがあると述べられています。報いは、財産が文字通り増えることを意味はしていません。同じ信仰者の共同体(キリスト教会)に参与することで、新たな家族を得ることが出来る、また互いに助け合うことで新たに生活をしていくことが出来る、そんな意味が述べられています。31節の言葉は、教会の指導者(先の者)が本物の福音を見失う一方で、後にキリスト者になった者が福音の本質を射抜いていることがある。そのようなことを意味しているのかもしれません。


持ちすぎることへの警告

 この物語は、私たちにとって最も大切なもの(家族・学歴・社会的地位・才能・財産など)を神に献げた上で信仰生活を送ること勧めているのではありません。あくまでも富や金銭・財産の問題であり、それを分配すべきであるという話です。聖書は基本的には金持ちへ警告します。それは金持ちが道徳的に傲慢なる危険を持つからではありません。持ちすぎる富は、結局は誰かから(合法的あるいは非合法で)富を奪って成り立っていることを聖書は見抜いているからです。つまり富の独占は、生きていく上で糧を得られない人がいるという現実の上に成り立っているし、またそのような状態を促進してしまいます。神の意志は、すべての人が生きることを楽しむことです。だから律法や初代エルサレム教会では、富を分かち合うように命令されているのです。経済的な自立と生活の楽しみ、そして何らかの理由で働くことができなければ互いに援助し合う、そんな理想が聖書には述べられています。神は貧困の苦しみはもっと嫌っています。貧困で生きることもままならない人がいる限り、富を持つ人々への警告は続くことになります。
 本日の聖書に登場する男性はこの現実的な問題に直面させられ、それを宗教的な事柄や人間関係の事柄として解釈することも許されずに、最終的な決断をイエスに迫られたことになります。私たちも同じようなところに立たされていることにまず気づかねばなりません。それぞれの生活は様々な事情によって苦しいことは現実であるが、その一方で経済的資源を貪ってしまっている現実があります。それが出来る日本という富んだ社会に住んでいるのです。だから、多くの私たちは富む側の人間であるといわざるを得ません。そのようなイエスからの警告を受けるべき私たちにとって救いの問題は大きいのです。このようにイエスの言葉である福音は厳しい側面を持ちます。しかし福音は私たちにとって本当の意味で(私たちが気づかないこと、聞いて当惑してしまうことも含めて)、人としての回復を他者と私にもたらせてくれるのです。生きる術の分配が福音として述べられています。