「人の子の受難予告(3)」

マルコの福音書 10:32ー34

礼拝メッセージ 2021.7.11 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,恐れる弟子たちと御顔をエルサレムに向けるイエス

 弟子たちが不安や恐れの感情を隠せなかったことが32節に記されています。「さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた」。32節以降の流れを見ると、受難予告のことばを聞く前であるのに、すでに弟子たちは驚いていたし、恐れを覚えていたことになります。弟子たちは先立って行こうとされるイエスの御姿に何かを感じたのか、その表情に明らかにこれまでとは違う何かを読み取ったのか、そばにいたからこそ伝わるものがあったのかもしれません。たとえばルカの福音書にはこうあります。「天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた」(ルカ9:51)と記されていますから、弟子たちはイエスが御顔をエルサレムにまっすぐに向けられたことをこのとき強く感じたのでしょう。
 このように驚き恐れる弟子たちの姿と、たいへん対照的に映るのがイエスご自身です。主はご自分に与えられた定めに臆することなく勇気をもって突き進んで行こうとされています。季節はもうすぐ過越しの祭が行われるということで、巡礼のためエルサレムに向かおうとする人々は多くいたことでしょう。毎年行われるその重要な祭儀に参加するために人々は旅の準備を始めていたと思います。しかしそういうことではなく、全く大きな歴史的使命を帯びて、出かけていく一団がここにいたのです。イエスはご自分が最後的で究極の過越しの犠牲となって殺されることを悟っておられたのでしょう。神による過越しのいけにえとしてご自身が屠られるために、これからエルサレムへ向かおうとされていたのです。


2,より鮮明にされていく受難

 三回目になって受難の予告内容がより鮮明に語られていることがわかります。一回目(8:31)と二回目(9:31)には言われていなかった情報がいくつか含まれています。まず、苦しみを受けられる場所がエルサレムであるということが今回のところで明確になりました。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます」と言われています。別の箇所でこう語られています。「預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ」(ルカ13:33)。ガリラヤでもナザレでもなく、絶対にエルサレムでなくてはならなかったのです。それが神のご計画であり、このエルサレムを起点にして神のご計画による宣教は新たに始められていくことになります(ルカ24:47,使徒1:8)。
 そして三回目の予告でこれまでになかったもう一つの内容は、イエスがどのように殺されていくのかということでした。33節後半から見ましょう。「彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します」(10:33)。ここで死刑に定められることと、異邦人に引き渡されることが語られています。イエスが逮捕された後、不当な裁判を受けられ、死刑に処するように異邦人たちの手に引き渡されることになります。34節で「異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します」となっています。嘲りと唾をかけられること、そしてむちで打たれることは、全くそのとおりの残酷な扱いをイエスはこれから受けることになります。異邦人ローマによってこれ以上酷いことはないと思われるような侮辱の数々が行われ、そしてむちで打つという拷問が行われることになりました。むちで打つ拷問は受刑者たちをほとんど半殺しにしてしまうような恐ろしいものであったようです。彼らは辱めを通して人の子である方を精神的に痛めつけて追い込み、むちで打つことによってその肉体をボロボロにし、その上で人々への見せしめとして、公開処刑であった十字架という磔刑に処して完全に殺してしまうのです。予告された受難のプロセスを思うと、表現としてはおかしいのですが、イエスは何度も殺された、あるいは徹底的に殺された、と言ったら良いでしょうか。人の子イエスの受難は、人間が持つ悪魔的な心、残虐で醜い性質を浮き彫りにします。それと同時に、人の子としてのイエスが向かう未来がどんなに苛酷なものであろうとも、ただ神の御心に従って勇敢に歩んでいかれる力強さを教えられます。


3,先立つお方と御あとに従う人たち

 弟子たちが尻込みしたくなったように、イエスが先立って進んで行かれる道は、苦難や危険が予想される道であることはそのとおりであると思います。しかし、その道は困難だけが待ち構えていたわけではありません。また滅びへと向かう道でもありません。一回目から共通して語られてきたこれらの予告には、人の子が苦しまれ殺されてそれで終わるのではなく、必ずその結びは「三日後によみがえる」ということでした。
 今回この受難と復活予告の箇所を読み、イエスがご自分の身に起こることを語っているにもかかわらず「わたしは」という一人称ではなく「人の子」あるいは「彼」(三人称)というふうに言われていることがとても奇妙に感じられました。もちろん、主はご自分についての予告を他人事のように言うつもりでこう語られたのではないと思います。これまでお伝えしてきたとおり「人の子」という表現はダニエル書7章13〜14節等のメシア預言を踏まえてイエスがそれをご自分のことであるとして語られた特殊な表現です。それが福音書では受難予告の文脈で語られたことから、人の子とは、苦しみを受ける義なる存在であるということを明らかに示していることに気がつきました。この義であるお方は苦しみを経られたがゆえに、のちに神に高く上げられて審判者となられるのです。重要な点は人の子が苦しみを通って行く義なるお方ということです。このことを踏まえて考えると、イエスがこれから人の子として進んで行かれる道は、ただご自分のことを預言することばではなく、イスラエルとその預言者たちといった義人たちが通って来た苦難の道をご自身が最終的に完成に至らせると理解しておられたがゆえの三人称での語りであったと考えることができます。ですから、広い理解で言えば、イエスの受難は正しく生きることを願い、生きてきたすべての人たちの苦難を包含するものです。
 32節に戻って読むと、「イエスは弟子たちに先に立って行かれた」と記されています。イエスはエルサレムへの道、受難を通って復活へと至る道を、弟子たちよりも、私たちよりも、その創始者、先駆者として、先に立って進んで行かれたということです。この「先に行く」(ギリシア語プロアゴー)という表現が使われてイエスが主語として次に出て来る文章を見ましょう。「しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます」(14:28)。「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます」(16:7)。今やイエスは、受難から復活へと進むこの険しく困難な道をご自分がひとり先陣となって切り込んで行かれ、生ける道を設けられたのです。10章32節にはそれに応答すべき人たちが「弟子たち」と記される一方で、追加して「ついて行く人たち」と書いています。「ついて行く人たち」とは、もちろんここの「弟子たち」を指しており、彼らのことを言い換えての表現です。つまり、「弟子」とはイエスに「ついて行く人たち」であることを示しています。驚いて理解できず恐れ惑うことがあったとしても、ひたすら主の御あとに従って行く者として、私たちも進んで行きましょう。