「盲人バルティマイを癒すイエス」

マルコ福音書 10:46-52

礼拝メッセージ 2021.7.25 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


バルティマイとの出会い

 イエスはエルサレムを訪問するときにエリコに立ち寄りました。エリコを出発する際に、バルティマイ(ティマイの子/ 栄誉の子)と出会います。マルコ福音書において、イエスに癒された者の名が記されているのは他の箇所にはありません。バルティマイは視覚障がい者であり、物乞いもしていました。病いの人であり、経済的な困窮者であったとマルコ福音書は説明しています。当時のユダヤ社会からすれば、律法を守ることができない罪人と呼ばれる人々の一人であり、社会的な差別を受けていたことが推察されます。そのようなバルティマイがイエスに向かって「ダビデの子」と呼び、憐れみを求めます。聖書における憐れみとは、他者の苦しみを理解しようと試み、その苦難を共に担うことを意味しています。バルティマイは、イエスの注意を自分に引き寄せようとしています。「ダビデの子」はメシアを意味し、神に遣わされてその支配を実現する者と考えられていました。もともとは政治的な意味合いが強い表現です。バルティマイがイエスをそのような人物として認めていたかどうかは分かりません。人々がイエスを「ダビデの子」と呼んでいたのを聞いて、その言葉を使っただけかもしれません。いずれにせよ、このバルティマイの必死の叫びがイエスに届きました。


バルティマイの癒し

 バルティマイは大喜びでイエスのところまでやって来きます。ここで面白いのは、イエスの問いかけです。マルコ福音書はバルティマイが視力を失った人物であることを強調しているので、読者の私たちにはバルティマイにとっての最大の問題は目が見えないことであり、彼がイエスに憐れみを求めたのは、視力が回復するためであると私たちは考えます。マルコ福音書の文脈からすれば、そのような印象は間違いではありません。しかし、イエスはあえて「何をしてほしいのか?」と問います。この問いかけはイエスの最後の言葉「あなたの信仰があなたを救った」につながっています。確かに、視力を失ったその人にとって人生の最大の課題が目が見えないかどうかは、分かりません。そのように決めつけることはできないでしょう。イエスはバルティマイが他に人生の問題を感じていた可能性を考えていたとの解釈も成り立ちます。しかし、イエスはバルティマイが視力を回復したいという願いをイエスに訴えていることが分かった上で、あえて問いかけをしたと考えられます。
 バルティマイは正直に自らの必要を訴え、イエスはそれに応答します。彼はすぐに見えるようになり、イエスに従ったとあります。それはイエスの弟子となったという意味です。本当の意味で「ダビデの子」としてのイエスを認め、イエスが神から派遣され、神の意志を実現する者であると信じたのです。


信じることの恵み

 イエスの癒しにおいて「あなたの信仰があなたを救った」という言葉が使われることがあります。イエスは自らの力でその人を救ったとは言いません。イエスに癒しの力があったとしても、それを一方的に使ったとは言わないのです。信仰による救いは、イエスに対する信仰の持った見返りとして癒されたという、ある種の取引と理解してはなりません。信仰という言葉は信頼と翻訳して良い言葉です。むしろ、そのように翻訳すべきでしょう。癒す者と癒される者との人格的な信頼関係が癒しを生み出し、イエスをメシアとして告白することにつながっていきます。神から多くの恵みを得るためにイエスを信頼するのではありません。イエスを信頼することに神の恵みを経験します。
 バルティマイは最初、自らの問題解決だけに目を留めていたかもしれません。癒す力を持つという噂のイエスに頼れば、目が見えるという確信に突き動かされています。しかも、イエスはそのようなバルティマイを受け入れています。しかし、イエスの一方的な癒しではなく、両者の人格的な交流の中でバルティマイはイエスに従う道を選びます。それは、イエスのとの信頼関係が恵みの座になったからです。最初は取引であったかもしれませんし、イエスは当初のような動機を認めていました。しかしそれは変えられました。恵みに対して従うという応答が呼び起こされたのです。それこそが弟子の生き方であるとマルコ福音書は主張します。バルティマイは自らの目標が達せられて時点でイエスから離れても良かったはずです。しかし彼は従いました。イエスに従うことと信頼することとは表裏一体です。マルコ福音書にとれば、服従と信頼とが各々で成り立つとは考えられません。イエスは信頼するに値します。だからこそ、イエスに従っていくのです。