マルコ福音書 11:1-11
礼拝メッセージ 2021.8.1 日曜礼拝 牧師:南野 浩則
イエスのエルサレム入城
イエスはエルサレムの東側から入ろうとしていました。そこでまず、2人の弟子を郊外の村に遣わします。その村につながれている子ロバについて話し、その子ロバを連れて来るようにイエスは弟子たちに命じます。弟子たちは子ロバを借り、イエスはその子ロバに乗りました。
イエスがエルサレムへ入る時、人々はまず自分たちの衣服を道に敷き、畑から切り取った枝葉をやはり道端に置きました。これらの行為は、そこを通る者への恭順の意味があったと思われます。イエスへ服従すると言う意志表現ですが、実際にはイエスのもたらすであろうユダヤ国家への期待の表現と考えられます。群衆の言葉が記されています。ホサナは「私たちを救って下さい」と言う意味です。次の言葉は、詩篇118:26に書かれていることばの引用です。イエスが主の名によって来た者、すなわち神によって派遣された者であると人々によって告白されています。次に人々のイエスに対する期待の内容が述べられます。人々はやがてダビデの王国が来ることを待ち望み、それをイエスの登場と重ねています。ダビデ王国は、当時のユダヤの祖先となる古代イスラエルが最も興隆した時の王国(政権)であり、ローマなどの外国から強い支配を受け続けてきたユダヤ人にとっては、自らの国を再興するための象徴的(シンボル)存在でした。次の行は(詩篇148:1からの引用?)、期待されている新しいダビデの国がイスラエルの神によって打ちたてられる、あるいは神の権威によって裏打ちされている、そんなことが告白されている。
エルサレムの民の期待
イエスのエルサレム入城の描写は、王の姿を連想させます。馬に乗り、人々はその王を讃えます。その事柄は、ダビデ王国への言及も示していることです。ここでの主役は、もちろんイエスですが、その一方で民衆の役割は見逃せません。これまでのマルコ福音書における民衆の存在は、イエスから奇跡をしてもらうなどの受身的な役割であったが、同時にイエスを理解する存在としても描かれてきた。ガリラヤの民衆はイエスの行動と言葉を喜ぶ者としてマルコ福音書では登場してきたのです。しかし、イエスがエルサレムに入る段階において、イエスを理解したこの民衆もイエスに対する無理解をさらけ出してしまっています。この群衆の言葉や行動が、福音書に記されている文字通りと理解するならば、彼らはこの地上での実力と武器を持ったユダヤ王国の再興を願っていることになります。しかしイエスはすでにエルサレムで殺されることを3回も弟子たちに予告しています。つまり、イエスは死を覚悟して(軍事力を象徴する馬に乗らずに、弱さの象徴であるロバに乗っていることは、少なくとも力でローマ支配を打ち破る意図がないことを示しています)エルサレムに向かっていることになりますが、まったく群集はそれを理解しません。それはイエスの予告は弟子たちにだけ語られたからであり、それゆえに群集はイエスの考えがわからないからでしょう。弟子たちはイエスの言葉を聴いてはいましたが、その真意を理解しようとはしませんでした。つまりイエスの覚悟は誰にも伝わってはいないのです。民衆は弟子たちとは違った意味で、イエスに新たな期待をかけたことになります。その期待のゆえに、イエスに対する一方的な賞賛の声を上げるという行為となりました。
私たちの期待
私たちは、登場人物である弟子たちや民衆とも違います。マルコ福音書を全体から読むことができ、福音書に書かれているイエスの真意を理解できる立場にあります。しかし私たちも弟子たちと同じように、福音書が与えてくれる様々な事柄や情報を読みはしても、その真意を理解することは難しいものです。私たちそれぞれがイエスに対するイメージや期待をすでに持っているからです。時に賛美などをしていると、神の勝利・信仰による勝利ということが歌われます。何かに目に見えて打ち勝つということでしょうが、マルコ福音書のイエスに対してはこの勝利のイメージは相応しくないでしょう。イエスの死への覚悟、そしてイエスの弟子として歩むことのある種の厳しさ(世とは違う価値観を持つこと)を(それは十字架に象徴される)抜きに、神の勝利・イエスの勝利に酔いしれてしまうことは、マルコ福音書に描かれるイエスの真意ではありません。私たちは何か望むことは大切です。神に祈りを通して願い出ることも必要ですし、それは真面目な取り組みです。問題は、私たちの願いを成就するためにイエスを利用することです。例えば、神やイエスの名を用いて(権威を借りて)、自分のしたいことをだけを押し通すことがあるかもしれません。イエスへの賛美は、イエスの意志に従う、イエスの価値観をこの地上に実現しようとする、そのことのゆえに意味があります。本当にイエスの真意を理解し、それに聴こうとしているのかどうか、そこが賛美の鍵です。賛美は良いものではあるが、無責任な賛美は非常に危険です。