「いちじくの木をのろうイエス」

マルコの福音書 11:12-14

礼拝メッセージ 2021.8.8 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1.奇妙な出来事

 イエス様たち一行は、エルサレムに着き、神殿に入られました。そして、すべてを見回った夕方、12使徒たちと一緒にベタニアという土地に出て行かれました(11節)。ベタニアはエルサレムの南東にある近くの村で、マリアとマルタ、ラザロの3兄弟が住んでいた場所です。ですから、イエス様たちはこの3兄弟の家に宿泊していたのではないかと考えられています。今回の聖書箇所は、イエス様たちがその翌日、再びベタニアを出てエルサレムに向かわれた時のことです。
 空腹を覚えられたイエス様は、葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、その木に実がなっているかどうか見に行かれました。しかし、そこに食べられそうなものは何もありません。そもそも、いちじくのなる季節ではなかったのです(13節)。
 すると、イエス様はその木に向かって、「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように」と、弟子たちの前で言われました(14節)。こうして、イエス様はエルサレムの町に入っていかれました(15節)。
 続きを見ていきますと、エルサレムで1日を過ごされたイエス様たちは、夕方になると再びエルサレムの外に出て行かれました。おそらく、前日と同じようにベタニアに宿泊されたのでしょう。そしてまた朝早く、エルサレムに向かわれました。
 その時、弟子たちは衝撃的な光景を目の当たりにします。あのいちじくの木が、根元から枯れているのです。ペテロは昨日の出来事を思い出し、「先生、ご覧ください。あなたがのろわれた、いちじくの木が枯れています(20・21節)」と言いました。イエス様のたった一言で根元から枯れてしまったいちじくの木を見て、驚きを隠せなかったようです。
 しかし、福音書の読者である私たちの多くは、いちじくの木がイエス様のことばを受けて根元から枯れてしまったという事実以上に、イエス様が「いちじくの木をのろわれた」ということに疑問を抱くかもしれません。いくら空腹であったとはいえ、実のなる季節でないいちじくの木をのろうとは、ずいぶん身勝手な話に思われます。また、イエス様が何かを「のろう」という聖書中の記述はここしかありません(マタイの福音書の平行箇所21章19節を含む)。この出来事は、福音書の中でも最も奇妙で難解な箇所の一つであると言えます。


2.実のないユダヤ人たち

 イエス様のこの言動については、これまで多くの学者たちによって様々な解釈がなされてきました。今回は、このいちじくの木の物語が、「宮きよめ」の出来事を挟んで描かれていることに注目したいと思います。イエス様がいちじくの木を見に行かれた出来事と、枯れたいちじくの木を発見するできごとの間には、エルサレムの神殿でイエス様が「宮きよめ」をなさったことが書かれています。イエス様は、宮の中で商品を売り買いしているユダヤ人たちを追い出して、お怒りになりました。主の宮の中で商売することをおゆるしにならなかったのです。
 いちじくと言えば、旧約聖書では主がお選びになったイスラエルの民(ユダヤ人)の象徴でもあります。エレミヤは、「よいいちじく」と「悪くて食べられないいちじく(エレミヤ24章1〜3節)」と表現しており、またホセアは、「いちじくの初なりの実(ホセア9章10節)」という表現を使っています。イエス様ご自身も、「3年経っても実を結ばない」いちじくのたとえをお語りになりました(ルカ13章6〜9節)。
 つまり、イエス様の宮きよめの前後に置かれたこのいちじくの木の出来事は、旧約聖書の神を口では信じているとは言っているが、儀式や律法、宗教制度ばかりで内実が伴っていない「実のないユダヤ人たち」を象徴していると言えます。そうなると、イエス様が本当に求めておられたのは空腹を満たすいちじくの実ではなく、ユダヤ人たちの内実の伴った神への信仰であったということになります。イエス様は、彼らの霊的な実が結ばれることを願っておられたのでした。


3.のろうよりも、とりなしてくださるお方

 もうひとつ注目したいのは、このいちじくの木の出来事の中で、イエス様が直接的に「のろう」という言葉を使ってはおられないということです。「あなたがのろわれた、いちじくの木が枯れています(21節)」と言ったのは弟子のペテロであって、イエス様は、「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように(14節)」と言われただけなのです。本質的にはのろっているのと同じだと理解することもできますが、「のろい」という言葉を用いて理解したのは、あくまで弟子たちだということを押さえておきたいと思います。
 イエス様はいちじくの木を枯らせることを通して、実のないユダヤ人たちへのさばきを象徴的に示唆なさいました。しかし、イエス様ご自身は、ルカの福音書13章6〜9節でたとえを用いて語られているように、実のならない不要ないちじくの木を切り倒そうとする主人に対して、「どうか、今年もう一年そのままにしておいてください」と、とりなしてくださるお方なのです。
 イエス様がエルサレムで見たユダヤ人たちの姿は、教会生活を送る私たちにとって他人事ではありません。主を愛し、熱心に従っているつもりでも、それが次第に律法的な信仰となっているかもしれません。イエス様が地上での生涯をかけて私たちをとりなしてくださったのですから、私たちは「自分にはキリストのとりなしが必要である」ということを忘れないでいたいと思います。そして、何度も自分の信仰を顧みながら、繰り返し、悔い改め続けることを大切にしていきたいと願います。