「復活についての問い」

マルコの福音書 12:18ー27

礼拝メッセージ 2021.9.19 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,復活を信じない人たち

 エルサレムに入られたイエスに対して、権威の問題、税金の問題、復活の問題と、敵対する者たちの挑戦は続きます。これまで律法学者やパリサイ人たち等がイエスに挑戦をしてきましたが、この箇所ではサドカイ人たちが登場します。ここにあるとおり、彼らは「復活はない」と信じていました。彼らはヘロデ王朝の親ローマ政策に迎合し、神殿を中心にした祭司階級に属し、サンヘドリン(最高法院)の重要な構成員でもあり、この時代の貴族的存在でした。信仰においては、当時成文化されていたモーセ五書しか認めないという点で保守的でしたが、現実的で世俗的な考えを持っていました。パリサイ人たちが重視していた口伝律法やモーセ五書以後の旧約聖書を受け入れなかったので、復活、天使、終末の報いなどを否定していました。
 この場面では彼らが復活を否定することの説明で用いていた質問をイエスに投げかけています。これはたいへん奇妙な問いでした。律法の中に、長男が跡継ぎを残さず死んだ場合、その未亡人となった妻を弟が娶るという規定がありました。一族を存続し嗣業地を守るために定められたものです(申命記25:5)。その規定からすると、仮に七人の兄弟たちがいて、長男から始まって跡継ぎを残さずにもしも上から順々に亡くなっていくとなると、その度に元長男の嫁は次から次へと兄弟たちと結婚していくことになります。しかしそうすると、もし人が復活するのなら、七人と結婚した女性は来世では誰の妻になるのかというのです。彼らが言いたかったことは、こうした規定がモーセ五書に書かれている以上、人が復活するということはそもそも想定されていないはずであるということです。だから復活はないのだと彼らは結論したのです。


2,聖書も神の力も知らない人たち

 彼らの質問を聞いた後、イエスが最初に言われたことは、あなたがたは間違っているということでした。24節「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているのではありませんか」。この訳では「思い違いをしている」と、ややソフトに聞こえる表現に見えますが、明確に訳せば「あなたがたは間違っている」、あるいは「あなたがたは誤りを犯している」ということになります。
 それにしても、仮にも当時の宗教的指導者たちであり、権威のある学者でもあったこれらの人々に対して、あなたがたは「聖書も知らない、神の力も知らない」と言われたのですから、これ以上ないほどの痛烈な批判でした。でもこの彼らに差し向けられた厳しいことばも他人事で済ますことができないのが聖書です。彼らは聖書を知らない不信者でも、ましてや異邦人でもありませんでした。むしろ神を信じて、神殿で役職をもって仕えていた人々です。その彼らに向けられたことばは、あなたは聖書のことばを信じているのか、神の力である復活の真理を受け入れているのか、と迫ってきます。論語読みの論語知らずではありませんが、毎日のように聖書を読んでいても、私たちも聖書をしっかりと理解できていないのではないか、あるいは本当に信じているのかと、イエスのおことばが語りかけて来るようです。
 サドカイ人たちがたとえとして語った話を振り返ってみると、七人の兄弟たちが次々と死んでいきます。最後にその妻も死にます。このようにこの話は人間が死ぬことを繰り返し語っています。サドカイ人たちは現実主義者であると言われていますが、彼らは人間がやがて死なねばならない存在であることは認識していました。しかし、彼らの考えはそこまでのことでした。だから彼らは現世の栄誉や地位、権力、富にのみ価値を置いて生きていたのです。彼らは神の力によって与えられる「いのち」ということがわからなかったのです。いのちがわからなかったのなら、彼らは死についても真正面から考えることはできなかったはずです。


3,復活を語り、それを体現した人

 イエスはサドカイ人たちの質問に対して、きっぱりと、「(人は)死人の中からよみがえる」(25節)と言われました。そして復活した人々は結婚することはないと言われました。イエスは彼らに対する反証として、モーセ五書の一つである出エジプト記から、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(3:6)を引用されて、復活があることを示されました。このことばがどうして復活を証しすることになるのか、ここであまり詳しく述べられていません。しかし、この後に「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」(27節)と言われました。このことからわかるのは、イエスが復活の根拠とされたことは、神の約束のことばであったということです。神はモーセが登場する何百年も前からアブラハムに約束されていたことばに基づいて出エジプトという救いの御業をなさいました。こうした神の約束の永遠性と絶対性のゆえに、その約束を受けた人自体も死んで滅びて無になったのではなく、今も生きているし、復活にあずかるということなのです。またここで注目できる一つのことは、出典元の出エジプト記3章もそうですが「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と、「〜の神」という語が繰り返されているということです。「アブラハムとイサクとヤコブの神」としていないことは大事な点です。それはアブラハム、イサク、ヤコブがすでにいなくなった過去の人々ではなく、永遠に生きておられる神の御前に今も生かされていることを表しているからです。私たち人間が元々永遠的な存在であるのではなく、また復活する力を持っているのではなく、永遠の神と霊的な絆で結ばれることによって私たちも永遠に生かされることになるということです。
 もう一つ忘れてはならないことは、復活を否定するための愚かな質問によって、死といのちの現実を軽んじていたサドカイ人とは違って、イエスご自身はもうすぐ十字架で死なれ、復活されるという、死といのちの緊張のただ中におられたということです。その中で「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」としてご自身を啓示された神があなたの神であるという恵みをイエスは教えられたのです。十字架にかかられ復活されてマグダラのマリアに現れたイエスはこう言われました。「わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る」と(ヨハネ20:17)。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」は「モーセの神」であり、「イエスの神」であり、そして「あなたの神」なのであり、このお方によってイエスが復活されたようにあなたも復活すると教えられているのです。