マルコの福音書 12:28-34
礼拝メッセージ 2021.9.26 日曜礼拝 牧師:太田真実子
1.ユダヤ人が大切にしていたこと
パリサイ派やサドカイ派、律法学者、ヘロデ党の者たちなど、当時のユダヤを代表する指導者や様々な党派の人々たちが、イエス様に難しい問題を投げかけて、陥れようとするも、反対にイエス様の知恵に群衆が驚嘆させられてしまう、という場面がしばらく続いております。
今回は、それまでの議論を聞いていた律法学者が出てきて、イエス様に尋ねました。マタイの福音書によると、彼もまた「イエスをためそうとして、尋ねた(マタイ22章35節)」のでした。
「すべての中で、どれが第一の戒めですか」という問いに対して、第一にイエス様がお答えになったのは「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」、これが最も重要な戒めであると答えておられます。当時、ユダヤでこの戒めを知らない人はいませんでした。この戒めは「シェマー」(ヘブル語:戒めの冒頭の言葉、『聞け』の意。)と呼ばれるもので、ユダヤ人たちが旧約聖書時代から最も大切にしてきていたものでした(申命記6章5節)。彼らは毎日これを唱え、子どもたちに最初に暗唱させる主の教えも、この「シェマー」でした。また、経札と呼ばれる小さな箱の中にもこの教えを入れて、額と左腕に紐で結びつけていました。ですから、膨大な数の律法から最も重要なものを決めるのは極めて困難であるものの、「神を愛する事が最も重要である」というイエス様の応答自体は、多くの人の認識と一致していたのではないかと思われます。
福音書においては、神やキリストを否定している人々がイエス様に敵対していたのではありません。むしろ、イエス様に敵対していた人々ほど、シェマーを尊び、熱心な信仰心を持っていたのではないかと思います。
2.自分の信仰のあり方を握りしめすぎないこと
「シェマー」がいかに重要な戒めとして扱われきていたのかということは、ユダヤ人の習慣にも表れていました。しかし、イエス様の応答においてユニークであった点は、「最も重要な戒め」を尋ねられているのに、2つも答えておられるところです。それも、「第二に」と前置きされているものの、あたかも「第一」のものと同列の重要事項のように「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と答えておられます。
もしイエス様の応答が「シェマー」だけであったとしたら、イエス様のローマ帝国や異教徒に対する態度が神に対して中途半端だとして、責められる点ができてしまっていたかもしれません。律法学者が「ためそう」としていたのであれば、イエス様の応答を想定して、陥れようとしていたことでしょう。ですから、イエス様の第二の応答は、予想外のことであったと思われます。
マルコの福音書は、「第一」、「第二」という分け方をしているので、優先事項は「第一」のほうかもしれません。しかし、イエス様は間髪入れずに隣人を愛することの重要性を述べています。つまり、強いて言えば「第一」の戒めが優先的なのかもしれませんが、どちらも同じように大事な戒めであり、優劣をつけられないほどに重要であるということではないでしょうか。
私たちクリスチャンにとって、神を愛することこそが最優先事項だと思います。しかし、それはパリサイ人や律法学者たちにとっても同じでした。神を愛することこそが重要だと確信していたからこそ、厳格に律法を守り行い、宗教的な事柄に厳しい態度で関わっていたのです。
第一の戒めを徹底するならば、聖書の神を拝まない人々のことは受け入れられないでしょう。キリスト教に限らず、実際にそのような宗教的な歴史は数え切れないほど見られます。また、パリサイ人たちは群衆について、「律法を知らないこの群衆は、のろわれている(ヨハネ7章49節)」とまで言ってしまいます。神を愛することしか考えない信仰は、時に私たちを律法主義的、あるいは攻撃的で、自己中心的な信仰に歪めてしまいかねません。
イエス様は、「だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言うものは、その物をもって父や母を尊んではならない(マタイ15章5-6節)」と言われます。供え物を理由に、父母の扶養の義務を放棄してはなりません。しかし、「神のために」と言えば、信仰的で崇高な思想であるように思い違いをしてしまうのです。
イエス様に質問をした律法学者は、最終的に「先生、そのとおりです(32-34節)」と告白します。彼自身がどのような考えを持っていた人物であったかは分かりませんが、イエス様を何度も陥れようとしてきた律法学者のひとりが、このように言ったのです。
私たちも、「自分のこれまでの信仰生活のあり方」にこだわりすぎることなく、「本当に重要なこと」を受け入れていく柔軟な心を持ちたいものです。
3.隣人を愛することを教えてくださったお方
イエス様は隣人愛を重要視する一方で、このように教えておられる場面があります。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません(マタイ10章37節)」。
具体的な出来事として、神様は「最愛の息子を手にかけよ」とアブラハムに命じられたことがありました。そして、アブラハムが息子イサクを手にかけようとした時、「あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった(創世記22章12節)」とアブラハムをお認めになりました。
私たちクリスチャンの多くが、「神を愛することこそが最重要」だと考えている通り、やはり神を恐れ、「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛」することを、神様は求めておられます。また、このことなくしては、私たちの信仰に健全さが失われていくように思います。ですから、イエス様が言われた通り、神を愛することこそが第一に重要な戒めなのです。
しかし、私たちは「神様こそが、隣人愛を実践してくださり、私たちを救ってくださったお方である」ことを覚えたいと思います。最愛の子イエス様を地上に遣わしてくださったからです。神様は地上に愛と平和が実現することを願っておられます。神様がイエス様をささげるまでに、私たちを深く愛してくださっているのですから、私たちは「隣人を愛する」ということを、「神を愛する」ということとあえて優劣をつけることなく、同じように重要な戒めとして、握りしめていきたいと願います。