「律法学者たちへの警戒」

マルコの福音書 12:38ー40

礼拝メッセージ 2021.10.10 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,律法学者とは?

 イエスは「律法学者たちに気をつけなさい」と言われましたが、この「律法学者たち」とはどんな人々だったのでしょうか。福音書の読者にとってはお馴染みの人々であり、イメージとしてはイエスに反対する宗教指導者たちというぐらいの理解が一般的であると思います。しかし実際のところ、彼らがどんな人たちであったのかを確認しておく必要があります。この福音書において律法学者は、たとえば11章18節で「祭司長たちと律法学者たちはこれを聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」と記しています。12章では、この前の箇所35〜37節で彼らのキリスト理解に問題があったことも指摘されています。ほとんどの場合、律法学者はイエスの敵対者で真理から外れた人々として描かれています。しかしそれだけではなく、28〜34節で質問した律法学者は、イエスから「あなたは神の国から遠くない」と肯定的なお言葉を受けた人もいました。
 歴史をさかのぼると、南北両王国の滅亡後、神殿が破壊されてしまうと、異郷バビロンで暮らすイスラエルの人々にとって律法こそが彼らの心の拠り所であり、アイデンティティーの源として強く求められるようになりました。そこで律法を正しく解釈して教えてくれる専門家が必要とされたのです。旧約聖書のエズラはそのルーツ的存在です。また、彼らは特別な筆写技術を習得し、その技術で忠実に昔からの文書を収集、筆写し、伝承して来てくれたのです。彼らの旧約聖書文書の収集と筆写のおかげで、今日、私たちは旧約聖書を読むことができると言っても良いのです。
 律法学者になろうとする人は、長い年月をかけて教育と訓練を受けなくてはなりませんでした。志願者は教師からの厳しい指導を受け、すべての伝承史料とその解釈方法を会得し、宗教規則、裁判法規に照らして諸課題に十分に対処できる能力を培う必要がありました。その能力があると認められると補教師(タルミード・ハーカーム)となりました。さらに学びと訓練を積んで按手を受けるところまでいくと正教師(ハーカーム)とされました。多くの場合、十代から専門的に学び始めて正教師となれるのは40歳ぐらいだったと言われています。正教師となった律法学者は、宗教上の規則や清めに関する問題に決定を下したり、裁判員として民事事件の判決もできる権能をユダヤ社会で認められていました。しかし、このような律法学者たちに対して、イエスが述べられた批判はたいへん厳しいものでした。また、民衆も彼らが真の権威をもって教えていないこと(1:22)、12章37節後半にも、律法学者たちの主張を否定するイエスの教えを喜んで聞いていたことが記されています。どうしてでしょうか。福音書が示す真実は、このように聖書を真剣に学び、精通していたと思われる者たちであったにもかかわらず、彼らの多くは、神の子キリストであるイエスに対して心を開こうとせず、敵対する者として行動しました。さらに、彼らの多くがここに指摘されているような偽善と高慢の罪を犯していたということです。


2,律法学者たちに従ってはならない

 その点から考えると、イエスの仰せになった「律法学者たちに気をつけなさい」とは、二つの意味が込められていると見て良いと思います。一つは、教師として振る舞っている律法学者たちという人々の存在にあなたがたは気をつけなさいということです。彼らに従って歩むことの危険をイエスは警告なさいました。40節で彼らが犯している罪がイエスの御口からはっきりと語られ、暴露されています。「また、やもめたちの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります」。この「見栄を張って」という語のギリシア語の意味は「何かを行うときの表向きの理由」です。そうすると40節の文章は、律法学者たちが長い祈りを捧げることを理由にして、祈祷料という名目で立場の弱い貧しいやもめたちから、金銭を貪っていたという可能性があります。次の41節からやもめの話となるのもそうした加害者と被害者的立場の対比が意識されてのことかもしれません。
 マタイの福音書23章に彼らの問題点が列挙されています。特に23章13節から36節の「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人」で始まる罪の糾弾はそれを詳しく述べています。13〜15節に次のように語られています。「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。そして改宗者ができると、その人を自分よりも倍も悪いゲヘナの子にするのだ」。やもめたちのように実害を受けなかったとしても、律法学者から教えを受け、彼らの行いが神に受け入れられていると勘違いをして従って行くことによって、天の御国の民になるどころか、彼らと同じようにゲヘナの子、これは地獄の子と言い換えても良いと思いますが、大切な救いを失ってしまいかねないとイエスは警告をなさるのです。だから、彼らは「わざわい」なのです。イエスが言われれるように神のことばを教える者が霊的に目の見えない案内人であることは民にとって本当にわざわいとなるのです。


3,律法学者たちの生き方をまねてはならない

 第二に、イエスが「律法学者に気をつけなさい」と言われた意味は、彼らの生き方に影響されてはならないということです。彼らのようになってはならないという戒めです。この「律法学者に気をつけなさい」の「〜に気をつけなさい」に付いているギリシア語の前置詞はアポという単語です。この語は「〜から分離して」というニュアンスがあり、「気をつけなさい」とは、「見る」(ギリシア語ブレポー)の命令形なので、ことばを厳密に表現すると「〜から違う方向を見よ」あるいは「〜から目をそらせよ」という意味になります。律法学者たちの考え方、生き方から影響を受けて染まることなく、彼らとは逆の違う方向に進まなくてはならないのです。マルコの福音書12章38から39節を見ると「彼らが願うのは、長い衣を着て歩き回ること、広場であいさつされること、会堂で上席に、宴会で上座に座ることです」とあります。最初に見ましたように、彼らの学問的研鑽、長い歳月をかけた教育と訓練からすると、人々から尊敬され、丁重に扱われることは社会的に当然のことであったでしょう。しかし、イエスの指摘される問題点は、彼らがそれを願っていたということ、それを動機として行動していたことでした。神のことばを学び、御教えを語る者であったはずなのに、いつしか神への視点が欠如し、神に見られていることを忘れ、他人の目、社会の目にのみ捕らわれていた律法学者たちの生き方は、たいへん愚かなものでした。しかし、これは他人事ではまったくありません。真面目に生きているつもりであっても、いつの間にか律法学者の如く歩むという危険は誰にでもあり得ることです。では、どのような生き方を求め、どなたを見て歩めば良いのでしょうか。それはイエスの御あとに従って生きることです。このお方に私たちは絶えず目を注ぎ、従っていくのです(ヘブル12:1〜2)。