マルコの福音書 12:41-44
礼拝メッセージ 2021.10.17 日曜礼拝 牧師:太田真実子
1.人知れずささげたやもめ
見栄を張った言動ばかりの「律法学者たちに気をつけなさい」と注意なさったイエス様は、それから献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を投げ入れるのをご覧になっていました。これは神殿の敷地内にある「婦人の庭」と呼ばれる所でのことだと言われています。
神殿の周りは高い壁で囲まれており、そこを入ると「異邦人の庭」と呼ばれるエリアが広がっています。異邦人はそこまでしか入ることができませんでした。神殿はさらに壁で囲まれており、そこに入ると次には「婦人の庭」と呼ばれる空間があります。イスラエル人の女性が入ることができたのは、ここまででした。そして、さらに仕切られている壁を通過すると、「イスラエル人の庭」と呼ばれる所に入ることができ、イスラエル人の男性は女性たちよりも奥まで入ることが許されていました。
イエス様が献金箱にお金を投げ入れる人たちをご覧になっていたのは、「婦人の庭」と呼ばれる所での出来事であったと言われています。そこには13の献金箱が設置されており、それらは上に向かってラッパ型に開かれていて、人々がお金を投げ入れることができるようになっていました。多くのお金持ちがたくさんのお金を投げ入れていたようです。
ところが、イエス様が目を留められたのは、おそらく誰にも注目されていなかったと思われる貧しいやもめでした。彼女はレプタ銅貨を2枚投げ入れました。レプタ銅貨とは当時の最小単位の銅貨で、それが2枚で1コドラントにあたる価値だと言います。1日の労働の賃金にあたる金額が1デナリだと言われており、1コドラントとは、その64分の1にあたる金額でした。つまり、1デナリをざっくり1万円ほどだとするならば、1コドラントは150円程度の価値になります。
イエス様が言われるには、彼女は生きるすべての手立てを投げ入れたのだというのです。このレプタ銅貨2枚が彼女の全財産だとするならば、彼女はあまりにも貧しく、いつ飢えてしまってもおかしくありません。
ところが、このやもめは、お金持ちたちがたくさんのお金を投げ入れる中、人知れずすべてをささげました。イエス様は弟子たちの前で、彼女のしたことを称賛していますが、彼女自身に聞こえるように言われたのではありません。彼女は、周囲の誰にも評価されないことをわかっていながら、すべてを神様にささげました。そして、誰にも声をかけられることなく去っていっていきました。
2.偽善者たちへの警告
マルコの福音書は、偽善者である「律法学者たちに気をつけなさい」とイエス様が群衆に注意された出来事の直後に、このやもめの話を配置しています。見栄っ張りで、宗教的な崇高さを誇っていた律法学者たちと、貧しくて人知れず財産をささげたやもめの姿は対称的です。ここに登場する「多くの金持ち」がどんな人であったかは分かりませんが、文脈を考慮すると、そのうちの何人かは多くささげることによって群衆に賞賛されたいという見栄があったのではないかと想像します。
イエス様はひとりのやもめの姿を通して、ささげるべき献金の金額や割合そのものについて、弟子たちに教えようとされたのではありません。気をつけるべき律法学者についても、貧しいやもめについても、それぞれの心の思いが行動に表れており、イエス様は心が神に向かっていることの大切さについて教えておられます。
献金をささげるとき、その姿を見ているのは群衆であるのか、それも神であるのか。もし群衆に対する意識の方が強いならば、たとえ全財産をささげたとしても、神様はそれを喜んで受け入れてくださるでしょうか。イエス様は、貧しいやもめが人知れずお金をささげる姿をご覧になっていました。同じように、神様は私たちのささげる姿をもご覧になっておられます。教会では何かと人目が気になるところもあるかもしれませんが、私たちは周囲の目よりも、私たちを養ってくださり、ともにいてくださる神様を思い、献金をおささげしたいと思います。
3.心を込めてささげる
この貧しいやもめの話が、 「イエス様が財産のすべてをささげるように教えておられるのではない」とはいえ、財産からささげる金額の割合は、私たちの神への信頼や感謝の思いと無関係だとは言えません。イエス様は、貧しいやもめが「生きる手立てのすべてを投げ入れた」ことについて、「誰よりも多くささげた」と言っておられるからです。神様への感謝と信頼なくしては、財産からたくさんをささげることは困難です。
しかし、だからと言ってこのやもめの真似をして全財産をささげたらよいのかというと、必ずしもそうではありません。神様は、感謝と信頼に満ちた、心の込もったささげものを喜んでくださるお方です。また、神様が私たちに金銭を預けてくださり、自分たちでより良い判断をしながら用いていくように任せてくださっています。ですから、全財産をささげていないことに罪悪感を抱く必要はありません。それらは日々の生活のために用いられるべきです。
神様が喜ばれるのは、神様のために心からささげるおくりものです。神様は私たちの人生を守り、導いてくださるお方ですから、生活に欠かせない金銭のことに関しても、「もっと信頼してほしい」と願っておられるのではないでしょうか。私たちが献金をささげるとき、目に映るのは神様ではなく教会の兄弟姉妹たちかもしれませんが、神様がともにいてくださることを覚えて、心を込めて感謝をおささげしていきたいと思います。