マルコの福音書 13:1-13
礼拝メッセージ 2021.10.24 日曜礼拝 牧師:太田真実子
1.ペテロたちがひそかに尋ねた終末の疑問
弟子の1人が「すばらしい」と絶賛したのは、イエス様たちがエルサレムに到着されてから多くの時間を過ごされた「宮」、すなわちエルサレムに建てられている石造の神殿のことです。この宮は、「ヘロデの神殿」という呼ばれ方もされています。この場所に初めに神殿を建設したのは、イエス様の時代から1000年近くも前のイスラエルの王ソロモンでした(第一神殿)。しかし、その後バビロニアによって破壊されてしまいます。神殿が再建されたのは、イスラエルの民がバビロン捕囚から帰還した紀元前6世紀のことです(第二神殿)。
そして、イエス様がお生まれになる頃までにこの第2神殿の大改修工事を完了させたのがヘロデ大王でした。神殿の改築は60年ほどの歳月をかけて行われています。ヘロデと言えば、聖書では「残虐な王」として有名ですが、彼が指揮した建築物は非常に高い評価を受けており(神殿の他、カイザリアの街、水道橋など)、「ヘロデの建物を見たことはないものは誰でも、決して美しいものを見たとは言えない」ということわざが生まれたほどです。イエス様の弟子たちはエルサレムより北のガリラヤ地方出身で、その距離は約160Km、車では2時間程度の道のりですが、徒歩では2、3日はかかる距離です。地方から都にやって来た彼らは、金箔で覆われたヘロデの神殿を見て、「なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と感嘆したのです。
ところが、イエス様は、この神殿は残らず崩されてしまうのだと言われました。このことに関して、弟子のペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレだけがひそかに「いつ、そのようなことが起こるのですか。また、それらがすべて終わりに近づくときのしるしは、どのようなものですか」と尋ねます。壮大なヘロデの神殿が崩されるとは想像もできなかったでしょうから、それが起こる時期やそのときの様子について尋ねたのでしょう。しかし、マタイの福音書では「あなたの来られる時や、世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう(24章3節)」と尋ねています。とですから、彼らは単に神殿が崩される時のことを尋ねたというよりは、この時点ですでにそれを終末や再臨と結びつけて理解しており、イエス様にその時期やその前兆についてを尋ねています。
それも、「ひそかに」尋ねたと書かれています。なぜひそかに尋ねる必要があったのでしょうか。それは、終末の前兆を他の人よりもいち早く察知し、終末に備えたいという思いがあったからではないかと想像します。彼らは終末の時期とその前兆という2つの質問をしていますが、終末が避けては通れないことを知っていたため、本当に知りたかったのは終末の前兆の方であったと考えられます。他の人よりも早くそれに気がつくことができれば、降りかかる災難から少しでも逃れることができるかもしれません。また何より、神様のさばきを前にして、神への悔い改めや献身の思いに心を集中することができるわけです。彼らがひそかにイエス様に尋ねたのは、利己的な思い表れだったのではないでしょうか。
2.まだ終わりではない、産みの苦しみの始まり
イエス様は、今後起こる数々の災難についてお語りになりました。しかし、「何が起こったら終末がすぐに訪れるのか」ということについては明言なさいません。終末の前に起こる苦難を挙げながらも、「必ず起こりますが、まだ終わりではありません。・・・これらのことは産みの苦しみの始まりです」と言われます。つまり、イエス様はペテロたちの質問に対して具体的にお答えになりながらも、弟子たちが最も聞きたかったことについてははっきりと語られてはいないのです。
ヘロデの神殿崩壊については、イエス様が死から復活されて天に昇られた後、紀元70年頃、すぐに実現しました。エルサレムはローマ軍に包囲されて陥落しました。
ペテロたちの疑問に対してイエス様がお答えになったのは、「宗教的・社会的混乱、また自然災害は必ず起こるが、これらは終末の前兆の始まりにすぎないので、最後まで耐え忍びなさい」というものでした。
偽メシヤについては、新約聖書の時代にすでにそのようなものが見られます(使徒8章9、10節)。また、2世紀に入ると、バル・コクバという人物はユダヤ人たちからメシヤとしての指示を受け、ローマの支配下から一次的にユダヤを奪還して、エルサレムでユダヤを統治します(その後、戦死)。他にも、現在に至るまで、聖書やユダヤ教、キリスト教から派生した宗教や指導者は数多く存在しています。
戦争については、紀元70年にエルサレムで起こった戦争を始めとして、その後、世界中で戦争が繰り返されてきています。自然災害においては、1世紀だけでも複数大地震が起こったとされています。近年は大地震に加え、豪雨や猛暑など、「異常気象」や「過去最大」という言葉をよく耳にするようになりました。私たちにとっても、今後の大地震における対応は重要な課題となっています。
イエス様が語られた「前兆」に該当すると思われる出来事は、紀元1世紀から現在に至るまで何度も繰り返されてきています。私たちにはもはや、それがイエス様がお語りになった前兆であるのかどうかさえ判断できません。「まだ終わりではない」と言われた通り、様々な出来事が起こってもなお、終わりを迎えていないのです。
3.神様との関係の中で生きるということ
私たちは世界で起こる出来事から終末について考察し、「今、自分たちはどの段階にいるのか」を詳細に知りたくもなるのですが、イエス様が終末の前兆について具体的に語られたのは、それが厳密にいつであるのかを教えるためではありません。イエス様がこれらのことをお語りになったのは、「その日が近いことを感じつつ、気を引き締めながらも、そのために何か備えをする必要はないということ」、そして「大切なのは、どんな時も神様との関係のなかで生きるということ」を教えるためではないでしょうか。
イエス様は、クリスチャンは迫害を受けることになるが、「話すのはあなたがたではなく、聖霊です(11節)」と言っておられます。イエス様は終末の前兆をお語りになることによって、その苦難のゆえに弟子たちを怖がらせようとされたのではなく、むしろ、「苦難のなかにも主の備えがあること」、「最後まで耐え忍ぶ人は救われるということ」をもって、彼らを励ましておられます。
私たちは、「少しでも苦しまないために神様に従う」とか、「自分が生きているうちに終末が訪れないなら安心だ」というような信仰ではなく、すぐに偶像に心が傾いてしまう私たちだからこそ、神以外に頼るべきお方はいないという緊張感をもちつつ、神様と共に歩むことの幸いに与っていきたいと思います。