マルコの福音書 13:14ー23
礼拝メッセージ 2021.10.31 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,「荒らす忌まわしいもの」が立つのを見る
「荒らす忌まわしいもの」
本日の聖書箇所は、イエスがオリーブ山で弟子たちに語られた終末講話の一部です。この14節からの部分は、ユダヤにおいて何が起こるのかを弟子たちにイエスが教えられたことです。タイトルにあるように、ここには「大きな苦難」が予告されているのです。これが非常事態であるのは、「山へ逃げなさい」(14節)、屋上にいる人は「降りてはいけない」、「(家の)中に入ってはいけない」(15節)、「(家に)戻ってはいけない」(16節)と繰り返される命令のことばで明らかです。
ここでは決して、逃げるな、ひるむな、立ち向かえ、とは言われていないことに注意が必要です。信仰者であっても危険があるならば、その難を避けるために逃げることは大切なことなのです。では、何が見えたら、どんな指標を目印とするのか、この危険を察知するには何を見れば良いのでしょうか。それが『荒らす忌まわしいもの』の存在です(14節)。この『荒らす忌まわしいもの』とは、旧約聖書ダニエル書の中に出て来る用語です。ダニエル書9章27節「忌まわしいものの翼の上に、荒らす者が現れる」、同11章31節「彼の軍隊は立ち上がり、砦である聖所を冒し、常供のささげ物を取り払い、荒らす忌まわしいものを据える」、同12章11節「常供のささげ物が取り払われ、荒らす忌まわしいものが据えられる時から、千二百九十日がある」。
これらの文章を見るだけでも、謎めいた雰囲気が伝わって来ると思います。マルコの福音書のほうの『荒らす忌まわしいもの』ということばの意味は「荒らす」は荒廃をもたらすということであり、「忌まわしいもの」(ギリシア語で「ブデリュグマ」)とは、嫌悪すべきもの、忌み嫌うべきもの、ということでユダヤ人の間ではそれは偶像礼拝に関係する事物をイメージさせるものでした。ギリシア語辞書の「ブデリュグマ」(忌まわしいもの)の項目にこのマルコの福音書13章14節のことが説明されていました。その説明にいくらかの情報を加えて言いますと、紀元前2世紀当時ユダヤを支配していたアンティオキアのヘレニズム王朝の王アンティオコス四世(通称エピファネス)が、エルサレム神殿にゼウスの像を立てさせたことがありました。ユダヤ人にとってこれは耐え難い屈辱的なことであり、冒涜にほかならないことであったので、それ以後、この偶像のことを「荒らす忌まわしいもの」と呼ぶようになったということです。
また、イエスがこの話をされている時代から言うと、その10年後にあたる紀元40年頃にも同様な事件がありました。ときのローマ皇帝カリグラが、自分の像をエルサレム神殿の中に立てさせようとしたのです。ところがカリグラ自身がローマで暗殺されてしまい、それは実現することなく終わりました。ある人たちは、マルコの福音書で語られていることは、このカリグラの偶像の出来事を指すと言いますが、別の人たちは、紀元70年にエルサレム神殿が破壊された後に、いつかまた神殿が再建されることになり、遠い未来においてこのような事態が起こると考えています。
信仰が踏みにじられる苦難
主がここで語られたことが何を指しているのかを完全に理解することは難しいのですが、確かなことは、イエスがこれをお語りになった後に、真の神を礼拝する神殿の中に、偶像が建立されるという、あってはならないことが起こるということです。「『荒らす忌まわしいもの』が、立ってはならない所に立っている」(14節)との記述は、神の民としては絶対に許すことができないことが、現実に起こってしまうとの預言です。「立ってはならない所」とは、直接には神殿を指していると思いますが、こうも言い換えることができると思います。神が本来おられる位置に、違う汚れた存在がそこに置かれるというようなことです。それは、真の神を信じる信仰が踏みにじられるような出来事のことであり、決してあってはならないと考えているような冒涜的な出来事が起こるということです。
今までになかった、今後も決してないような苦難とは、まさにそのようなことなのです。戦争が起こって町や建物が破壊されるような危険も非常に恐ろしいことですが、それだけではなく、そこでは神が冒涜され、信仰のシンボルであるようなものが汚されたり、壊されるような悲惨な事件が起こるとイエスは言われました。私たちも、自分には信仰があるゆえにどんな苦難が来ても平気であると考え、未来に対して油断をしてはならないのです。信仰の根幹が揺るがされるようにさえ思える苦難はあるのです。
2,大きな苦難が来る前に私たちができること
振り返らず、逃げよ
けれども、イエスはその危機に際して、私たちができることとして、二つのことを言われました。第一に、振り返ることなく、逃げることです。15節に「家から何かを持ち出そうと」することや、16節には「上着を取りに戻ってはいけません」と言われています。これは、いのちを優先するということです。他のものに心を奪われてはならないのです。未練を断ち切り、信仰という魂のことを最優先して身軽になってこそ、危機から逃れることができるのです。別の場面ですがルカの福音書の中で終末の話をされたとき、イエスは「ロトの妻のことを思い出しなさい」(ルカ17:32)と言われました。ソドムが滅ぼされることの中で、「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない」(創世記19:17)と警告を受けていたにもかかわらず、ロトの妻は振り返り、塩の柱になってしまったのでした(同19:26)。危機が迫る中で、私たちは決して振り返ってはならないのです。
祈れ
第二に、祈ることです。18節で「このことが冬に起こらないように祈りなさい」と言われています。なぜ冬に苦難が起きないように祈るのかと言うと、冬は食糧が乏しくなる季節であり、避難するにも寒さや飢えとの闘いが出て来るからということでしょう。しかし、ここで大事なポイントは、そのことではありません。このような大きな苦難の時は、神のご計画に基づいて起こることだから、私たちの意思や願いとは何も関係のないことであると思いやすいのですが、そうではないと語られていることです。私たちは世の終わりに臨んで、祈らなくてはならないのです。
たとえこれが歴史的なもので、世界規模でその影響が広がるような患難であるとしても、イエスは言われるのです。「あなたがたは祈れ」、「祈り続けよ」と。私たちはそれが冬に起こらないように祈り、その日数が一日でも少なくなるように、祈らねばならないのです(20節)。ここでイエスの終末講話を聞いていたペテロは、後に手紙の中でこう記しています。「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい」(Ⅰペテロ4:7)、「神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません」(Ⅱペテロ3:12)。