「ナルドの香油」

マルコの福音書 14:1ー9

礼拝メッセージ 2021.11.28 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,この女の人はイエスがどなたであるのかを知っていた

光と闇

 本日の箇所は、闇の中にそっと美しい光が差し込んでいるような、そんな情景が描かれています。1節に「過越の祭り、すなわち種なしパンの祭り」と記されています。この祭りは、民がエジプトの圧政から神の力強い御業によって救い出されたことを記念する最も大切なものです。民は、罪と死の束縛から贖い出され、解放され、約束の地へと導かれました。言わば、神によって救われたという「いのちの祭り」であったのです。祭司長や律法学者たちは宗教的指導者であったわけで、一年のうち最も重要なこれらの祭儀を準備をするために、忙しく働いていなければならなかったはずです。ところが、彼らはひとりの人のいのちを奪うためにその方法を必死に探していたのです。彼らは互いに「祭りの間はやめておこう」とその時期をうかがっていました。自分たちにとって邪魔で目障りなイエスを殺害することに躍起になっていたのです。今日の箇所の続きの10節から11節には、イスカリオテのユダがイエスを引き渡す約束を祭司長たちと結んだことが記されています。「いのち」の恵みを民全体で祝うべき最中に、彼らは人のいのちを奪うことに心を向けていたのです。しかし、福音書はその陰謀が企てられるという闇の出来事の中に挟み込むようにして、ひとりの女性がイエスに対する愛と献身を大胆に表したことを記すのです。

イエスの頭に油を注ぐ

 この女の人は男性たちが食事をしているところに入って行き、驚くべきことに香油の壺を割って、イエスの頭の上からそのすべてを注ぎかけたのです。もしかするとあっという間の出来事で、席についていた男性たちは唖然としたのかもしれません。彼らの中で当然のように声が上がりました。「何のために」こんなことをしたのか、ということばです(4節)。批判的にではなく、ここで私たちが問わなくてはならないのは、実際何のために、この人は香油をイエスの頭に注いだのでしょうか。その意味は何であったのかということです。第一に、この女の人は、イエスがどなたであるのかを知っていたということです。「何のために」という非難の声に対して、彼女は一言も言わなかったのか、ことばは何も記されていません。けれども、彼女の行為そのものが、イエスが仰ったとおり、彼女の信仰を雄弁に語っているのです。
 油を頭に注ぐ行為は、読者にイエスというお方が、油注がれた者、すなわちキリストであることを思い起こさせるものです。この福音書の始まりは「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」(1:1)でした。イエスこそが、油注がれた王、祭司、預言者の職能を持った真の支配者、待望の救い主であることを、この書は示してきたのです。この書は、無理解で悟ることの難しい弟子たちの姿とは対照的に、名も無きひとりの女性を通して、イエスがキリストであることを行動をもって告白したことを明らかにしています。後には、やはり無名の百人隊長が「この方は本当に神の子であった」(15:39)と告白する姿を描いています。


2,この女の人は献げることの意味を知っていた

非常に高価な香油を一滴も残さずに

 女の人が注いだ香油について、3節と5節にそれがいかに高価なものであったのかが示されています。3節に「純粋で非常に高価なナルド油」とあり、憤慨した者たちのことばから、これが「三百デナリ以上」の価値があることが語られています。「ナルド油」はヒマラヤ原産のナルドという植物の根茎からとった香料で作る、非常に高価な香油です。デナリは労働者一日分の賃金とされていますから、それが三百であるということは一年分ほどになります。この箇所には、この人がいかにしてナルドの香油を手に入れたのかは記していません。長い間苦労して貯金をためて買ったのか、それとも元々裕福な人であったのか、それは分かりません。しかし、おそらくその価値を知らないことはなかったと思います。3節に「その壺を割り、イエスの頭に注いだ」と書いていますので、三百デナリ分の高価な香油をすべて注いだということです。壺を割っていますから、一滴も残らぬようにということでしょう。油は液体なので、一瞬で流れ落ち、その部屋中に香りがたちこめたことでしょう。もう元へ戻せない、たいへん思い切った行動でした。

聖なる浪費

 このことに憤慨した者たちは「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。…貧しい人たちに施しができたのに」(4〜5節)と言って、彼女を厳しく責めました。確かにこれは、もったいないお金の使い方に見えたかも知れません。もっと有益なことのために使えるはずだと彼らは言ったのです。貧しい人たちに施しをするという彼らのことばは、正しいことのように聞こえます。しかし、他の福音書の同様な記事の中で暴露されているように、彼らは貧しい人たちのことを考えていたわけではなく、彼女のイエスへの犠牲的な奉仕の姿を見て、妬みと怒りの思いが湧き上がったのではないでしょうか。しかし、こうした間違った彼らの姿勢は、とても恥ずかしいことですが、自分の中にもあることを認めねばならず、彼らの誤りを批判して笑うことはできません。
 一方で、この女の人のこの香油注ぎは、主への奉仕の正しいあり方、捧げ方を示しています。私たちがしている教会の多くの事柄も、見方によっては、もっと慈善活動にお金と時間を使うべきだと言われれば、そうかもしれません。けれども、もしそこに主への愛がなければ、主に対する礼拝と賛美の心がなければ、それは虚しいことではないでしょうか(Ⅰコリント13:3)。ですから、ある説教者は、彼女のこの行為のことを「聖なる浪費」と呼びました。


3,この女の人は主の受難の意味を知っていた

 最後に、この女の人が悟っていたもう一つのことを確認しましょう。それは、主の受難の意味を彼女は知っていたということです。なぜそれを悟れたのかは分かりません。しかし、何も分からずに、三百デナリ分にもなる高価な香油をこんなかたちで捧げることはできなかったでしょう。イエスご自身が「彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました」(8節)と明言されました。香油というものは、おもに死者の埋葬のために使われるものです。1節にあったように、イエスにとって、今やその時が二日後に迫っていたのです。受難予告を幾度も聞いていた弟子たちでさえ、それを真正面から受け止めきれていなかった中で、彼女はイエスがこれから、私たちの救いのために死に向かわれていくことが分かっていたのです。その後、十字架にかかられたイエスのおからだに香油を塗ることはできませんでした(16:1)。なぜなら、イエスはよみがえられたからです。その意味でも、彼女はふさわしいタイミングで、このわざを成したのです。イエスは言われました。「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます」(9節)。