「過越の食事」

マルコの福音書 14:10ー21

礼拝メッセージ 2021.12.5 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,準備を命じるお方と準備をする人(12〜16節)

 弟子たちはイエスに尋ねました。「過越の食事ができるように、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」(12節)。このことばには隠れていることばがあります。それは「用意をしましょうか」のところです。厳密に表現し直すと「用意をすることをあなたは望みますか」ということになります。この「あなたは望みますか」ということが示しているのは、この食事が弟子たちの主導によってなされたのではないということです。この過越の食事は、食卓の主人であるイエスが望まれたとおりに実施されねばならないということなのです。晩餐の主人はイエスであり、弟子たちはその食卓に招かれているのです。しかし、彼らはただ出席すれば良いだけの単なる「客」ではなく、イエスに仕える「弟子」という立場なのです。この12〜16節の中で、4回も「弟子」ということばが繰り返されているのは、イエスと彼らとの関係性を明らかにするためです。そして弟子たちに対して、イエスは「先生」(14節)であり、この晩餐を主催する主人でした。
 それで主人であるイエスは、弟子たちに命じるのです。それが過越の食事の「用意をする」ということでした。この「用意する」あるいは「準備する」ということばもここで4回も繰り返されています(12、15、16節)。主人のために食卓の用意をするという彼らに与えられた役割は、主の弟子とされたすべての人々にも求められている奉仕の姿であると言って良いでしょう。食卓を仕切り、導くことは主人であるイエスがなさいます。弟子たちは主が働いてくださることを覚えて、命じられるとおりに、必要なことをしっかりと「用意する」のです。
 しかし、この記事の中でさらに気づくことは、用意をしたのは弟子たちだけではなかったということです。主が弟子たちにこれらのことを「用意させる」前に、イエスご自身がすでに先回りをして、必要な前準備をなさっていたということです。13〜15節のイエスの語られた指示の内容ににそのことが記されています。「都に入りなさい。すると、水がめを運んでいる人に出会います。その人について行きなさい。…」(13節)。水がめを運んでいる人が珍しいことであるならばわかりますが、もしふつうのことで、運んでいる人がたくさんいたのでは何の目印にもなり得ません。これはどういうことなのでしょうか。このことについては、いろいろな解説がなされています。水がめを運ぶのはふつう女性がしていたので、男性が運ぶことが珍しいことであったとか、それをする男性はエッセネ派だけであったとか、通常、男性は革袋で運んでいたから、等の説明がなされています。やや込み入った説明では、アラム語で「水がめ」は「マルコス」と発音するので、これが当福音書記者のマルコのことを指しているという説もあります。いずれにしても、その水がめを運ぶ男が入っていく家の主人に「わたしの客間はどこか」と聞けば、二階の大広間に見せてくれて、絨毯も敷かれ、クッションもあって、十三人の男たちが横たわって(当時の習慣で)食事ができるように準備万端整ったところに案内されました。ふたりの弟子たちは言われた通りであったので、驚きつつ食事の準備をしたと思います(16節)。弟子たちに準備をさせるイエスは、同時に、その準備が滞りなくできるように先立って予め準備をしていてくださるお方なのです。


2,引き渡されるお方と引き渡す人

 本日の聖書箇所は、三つに区分することができます(10〜11節、12〜16節、17〜21節)。最初の10〜11節と後半の17〜21節には、共通点があります。それは、これまで見た12〜16節と違って、「弟子たち」ということばが全く使われず、弟子たちを指すときにはすべて「十二人」という表現になっています(10、17、20節)。十二使徒ということが、イスラエル十二部族を象徴することはよく知られているところです。彼らこそが神の民全体を代表し、イエスとともに神の国の支配、働きを進めていくように遣わされるべき人たちです。さらに、この十二人とは寝食をともにされ、おそばに置いて彼らを教え、整えていかれた人たちでした。しかし、その「十二人の一人」(10、20節)が、師であるイエスを裏切るのです。
 「あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ります」(18節)とイエスは明言されました。このことばは、脚注などにもありますように、詩篇41篇9節の「私が信頼した親しい友が/私のパンを食べている者までが/私に向かって/かかとを上げます」のみことばを示しています。「かかとを上げる」とは、反逆と敵対の象徴的表現です。この「十二人の一人」は、イエスが「わたしと一緒に食事をしている者」(18節)、「わたしと一緒に手を鉢に浸している者」(20節)と呼ばれています。これは非常に親しい間柄であることを示しており、「一緒に鉢に浸している」というのは、同じ鍋をつつく、あるいは味をつけるための醤油やソースを共有するという感じかもしれません。家族や親しい友人や恋人以外に、誰もそんなことはしないことです。それほどの関係性にあった「十二人」でした。イエスのことばを聞いて、その場にいる弟子たちは「まさか私ではないでしょう」(19節)と次々に言ったとあります。ギリシア語では「メーティ・エゴ」という非常にシンプルなことばです。「メーティ」とは否定の答えを予期することばです。彼らは口々にそう言ったのです。もちろん、イエスを直接に売ったのは、イスカリオテのユダでした(10節)。しかし、ご存知のとおり、この後の展開を見れば、この食事の席にいたペテロは、三度もイエスとの繋がりを否定し、イエスを見捨てました。また、他の弟子たちも「イエスを見捨てて逃げてしまった」のです(50節)。
 イエスは、それは「まさか私ではない」と言った一人ひとりが、その舌の根も乾かぬうちにご自分を裏切ることをすべて知っておられたので、「いや、あなただ」と彼らのことばを突き返すことさえできたと思います。しかし、そうなさらなかったのです。また、イスカリオテのユダを名指して、追及することさえしなかったのでした。その理由は、二つあると思います。一つは、イエスは彼らの先回りをして許しておられたということです。これは主の人知を超えた果てしなく大きな愛、慈しみというほかありません。そして、もう一つは、御父のご計画に従順に従う信頼であるということです。この箇所で頻繁に繰り返されてきたことばの一つは「引き渡す」ということばでした(10、11、18、21節)。しかし、文章をわかりやすくするために、このことばは文脈に合わせて「裏切る」とも訳されています。確かに、ユダはイエスを罪人たちの手に引き渡します。しかし、このことばはイエスが「人の子」を主語にして語って来られた受難予告でしばしば言われてきた表現です(9:31、10:34〜35)。
 イエスは人の子として、これからどのように導かれていくのかを知っておられました。「わたしは引き渡される」という意識をお持ちでした。当然のことですが、だからと言って、ユダや裏切った弟子たちに責任がないわけではありません。しかし、人の子として主は、弟子たちのためばかりではなく、すべての人たちの罪の赦しのために、私たちの贖いのために、この食卓が示す過越の屠られる子羊(12節)となられることを受け入れられたのでした。