「主の晩餐」

マルコ福音書 14:22-26

礼拝メッセージ 2021.12.12 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


主の晩餐

 食事の前の感謝はユダヤ教では普通の習慣として行われていたようです。また、パンを配膳するということは、招待した主人あるいは招待客の中で最も地位の高い者が食事の前に行う習慣もありました。パンが取られ、裂かれ、与えられます。イエスは弟子たちにこのパンを取るように命じます。そして、裂かれて配られたパンがイエスの体であると宣言されています。イエスのパンはキリストを信じる人々(共同体)への参加を意味していると解釈できます。
 パンの次は杯(ぶどう酒)を共食します。再びイエスはこの杯(ぶどう酒)に対して、神への感謝をささげます。それから弟子たちに杯が配膳されます。全ての弟子たちが一つの杯から飲んでいるので、回し飲みをしたと思われます。杯はイエスの血を象徴しています。ここでの血の意味は契約とされているのです。「多くの人のために」とは、犠牲を意味していると考えられています。つまり犠牲(あるいは身代わり)としてイエスが血を流すことが、杯と関連して述べられていることになります。マルコでは珍しい考え方です。イエスが流す血は、このような犠牲(身代わり)としての意味、そして神が人間救済するという契約(約束)の意味が宣言されています。
 終末(この世が終わり、神の救済が実現するとき)まで、イエスはぶどう酒を飲まないと言っています。そもそもイエスが死んで復活していく中で、再びどのようにぶどう酒を飲むのかといったことを感じられるかもしれません。でもマルコ福音書はまさにそのことを言っているのです。流された血の契約は終末まで有効であることが言われています。今の時代が「まだ」終末が来ていない時代とするならば、このイエスの血による契約は有効であり、神が人を救う約束は果たされ続けていきます。


他者との関係

 イエスの最後の食事の出来事は、イエスが死んだのは人々の罪の身代わり(神に対して犯した人間の罪を赦すために、身代わりとなって死んだ)の教えと結びついて、キリスト者が自らの罪が赦されたことを記念し感謝するという意味で理解され、教会の宗教的儀式(礼典)として大切にされてきました。人間は取返しのつかないことをするわけで、それに対する赦しの経験(責任を認める、和解する、赦してもらう)がどうしても必要です。そのような観点からすれば、神がイエスを通して人間を赦し、和解に招くということは重要な出来事です。本物の赦しの経験で、人間関係・社会生活・精神生活が変えられていくことができます。
 しかし、そのような神との関係はイエスの最後の食事の意味の一つでしかありません。この食事の意味は、ともに生きる者が自分に与えられていることを覚え、感謝する時でもあります。人は一人で生きることなど出来ません。支えあうことが必要です。イエスの福音にはこの人間同士の関係が絶えず語られ、意識されてきました。聖書の言う神信仰ということから言えば、人間関係を無視したり、あたかも隣に人がいないように振舞ったりするそのような信仰はありえません。神との関係は人間との関係なしには成り立ちませんし、人間関係は神の価値観の実現なしでもありえない、これが聖書の教えるところです。イエスの食事はそれを実現した出来事、あるいはその象徴として新約聖書に記されています。だからこそ、神はすべての人(キリスト者であろうがなかろうが)を、その人たちに命を与えている限りにおいて、ご自分の食事に招いて下さっていると信じることができるのです。


食事としての意義

 このような神関係と人間関係が不可分であることが、食事という人間の基本的な生活に根ざしていることも注目しておきたいと思います。それは高尚な哲学や修行において経験されることではなく、日々の生活に経験されることです。キリスト教会は食することも聖餐式として生活から分離して、高尚なものとしてしまいました。あるいは、生活の事柄を信仰から分けてしまい、それを低いものと見なしてきました。そのような考え方は、実にイエスの福音から程遠いものです。共に食するということが生活の基盤であり、その日々の生活が神の人とが出会う場所である、そのようなことを私たちは常に意識しておきたく思います。イエスの最後の晩餐は確かに特別な出来事ではありましたが、イエスが生活の上に赦しと交わりを実現したこと、このことは非常に重要です。イエスの食事は、何か生活からかけ離れた性格のものではなく、ましてや日々の生活を賤しめるものではありません。私たちの神への信仰も同じです。日常の生活の中にこそ、真の神との出会いが経験され、人の関係が築かれていくこと、これが私たちの信仰生活です。