「ことばは肉となった」

ヨハネ福音書 1:1-18

礼拝メッセージ 2021.12.19 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


ことば(ロゴス)の意味

 ことば(ロゴス)は、私たちがコミュニケーションを図るための道具という以上に、この世界を成り立たせるものという理解がありました。人々は様々な哲学や宗教を用いてこの世界を説明しようとしていますが、この世界を成り立たせているのは、いのちを与えるイスラエルの神であるとヨハネ福音書は主張するのです。それが、創世記1章とヨハネ福音書1章とを繋ぐ大切なカギとなります。
 本日の聖書箇所は、この世界を成り立たせている神はどのようにご自分を顕わしているのか、どのように自らを人々に知らせているか、どのように神自身の考え方(価値観)をこの地上に住む人々に解らせようとしているのか、そのようなことを述べています。神が自らを知らせる方法として、預言者を立てるということが聖書にしばしば登場します。あるいは聖書という書かれたものも神の言葉として大切にされました。ですが、ヨハネ福音書は別の方法、しかもそのあり方は決定的なこととして述べられています。それは、この世界を成り立たせていることば(すなわち神)が、肉となったということです。肉とは今の言葉を用いれば物質ということです。古代地中海世界(特にギリシア文化)では、物質は目に見えるが朽ちて消滅するものであり、それは神の領域には属さないと考えられていました。その一方で、目に見えない霊は永遠に残っていくものであり、永遠に残るからこそ神の 領域に属するものでした。そこで霊は肉に優るということになります。そのような考え方からすれば、永遠であり霊である神が肉などになるはずはありません。逆に言えば、肉になるような者は神であるはずがないのです。しかし、ヨハネ福音書が述べるのは、現に神が肉になったということです。肉になり人々の間に住み、肉体を持って生きたということです。ある人々の常識からすれば、起きるはずのないことが起きたという驚きがここには含まれています。だから、新改訳のように「人」と翻訳してしまうと、この起きてはならない事が起きたというニュアンスが薄れてしまいます。


ことばはイエス

 この世界を成り立たせる神が見える形になった、それがイエスだとヨハネ福音書は語ります。このイエスにおいて真理と恵みとが生じていると言います。それはイエスの生涯・死・復活を通して顕かにされるのであり、だからこそこれからイエスの出来事を語ろうとするのです。神を見た者はいないと言われています。旧約時代、神を見る者は死ぬと人々は信じていました。あるいは、聖書の神は自らを目に見える形にする像にすることを嫌いました。また、神は霊であるから見えないのは当然です。しかし、ひとりの子の神(キリスト)がこの世界に生き、見えない神を指し示し、神を解説(紹介)しているのです。つまり、この世界を成り立たせている神を知りたければイエス キリストの生涯・死・復活を知れば良いのです。神の真理は、このイエスを通じて表わされています。


受肉の意味

 当時の常識を超えて神が肉となり自らを顕わしたのはなぜでしょうか?人々がそのようなことを疑うであろうことを知りつつ、あるいは肉となるような神は本物の神ではないと言う非難を覚悟しつつ、神はなぜ常識を超えようとしたのでしょうか?常識は皆が考えることであり、人々に説明するには解りやすいものです。しかし人間の常識的な考えが人間を救うことはありません。それでは何ら良い知らせでもないし、驚きの知らせでもありません。
 ヨハネ福音書の良い知らせとは、神である方が肉となり、人間と共にこの世界に住んだと言うことです。聖書の神は人間から離れた所にいて人間を指図する神ではないのです。神は敢えて滅びる肉となったとは、人間の生活を経験し、人間と共にいて、人間と関わることを選んだことを意味します。神は愛する者(人間)を指導することで救おうとしたのではなく、人間に共感することで救いをもたらそうとしています。それは神の価値観が現実になるためです。また、その共感は人間としての生き方を示すことになります。つまり、モデルを示しているのです。イエスを神として認めて信頼することは、このイエスに人間としてのあり方のモデルを見出すことです。神が分からなければ、 あるいは神が望まれる人としての生き方が分からなければ、イエスの生涯(言動)を見れば良いのです。ことばが肉となったことは、私たちが神を知り、神を信頼し、神に従う、それらを現実させることです。そのようなイエスを信じ、神に従っていきたいのです。