「弟子たちのつまずきとイエスの約束」

マルコの福音書 14:27ー31

礼拝メッセージ 2021.12.26 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,神の定めを知っておられるイエス

衝撃のことば

 過越の食事であった主の晩餐が終わった後、賛美の歌を歌ってから、イエスと弟子たちはオリーブ山に行きました。その賛美の歌は、ハレル詩篇と呼ばれる詩篇115篇から118篇であろうと言われています。その118篇の最後は、「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」(詩篇118:29)と締めくくられています。このフレーズは王国時代の神殿礼拝からずっとよく歌われた賛美です。弟子たちの耳には、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」という賛美の余韻が残っている中であったと思いますが、オリーブ山に向かう中でかわされた会話が本日の聖書箇所です。神である主のいつくしみ深さ、とこしえに続く恵みを思う弟子たちに向けて語られたイエスからのことばは、たいへん衝撃的なものでした。「あなたがたはみな、つまずきます」(27節)。「主よ、なぜ、そんなことを仰るのですか」と弟子たちは心揺すぶられてそう問いたかったと思います。

打たれ、散らされるという預言

 しかし、イエスは続けて、ゼカリヤ書13章7節のことばから、こう言われました。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる」と。あなたがたがつまずいてしまうことも、羊飼いであるわたしが打たれることも、すでに預言され、これから確実に起こることなのだと主は告げられました。元のことばでは「剣よ、目覚めよ。わたしの羊飼いに向かい、わたしの仲間に向かえ−万軍の主のことば−。羊飼いを打て。すると、羊の群れは散らされて行き、わたしは、この手を小さい者たちに向ける」(ゼカリヤ13:7)と書いています。羊飼いである自分が打たれることになるのは、神の御心であることをイエスはここでまた明らかにしています。さらに言えば、羊飼いであるご自身が打たれることによって、羊飼いにこれまで導かれてきた羊の群れである弟子たちも散らされることになることも、神の許された定めであったということになります。

イエスの御父への信頼

 これから起こる、イエスの受難、弟子たちのつまずきと離散は、すべては定まっていたし、わかっていたことであると聖書は記していますし、イエスご自身もすでに知っておられたことでした。そこで、私たちがここに描かれているイエスの御姿を見て、覚えなければならないことは、神の定め、またそのご計画が、たとえ激しい苦しみのプロセスを通ることを知っていてもなお、イエスはそれを受け入れて認め、さらに御父への信頼を忘れなかったということです。この後のゲツセマネの祈りの出来事の中で、その点についてさらに深く学ぶことになりますが、自分は打たれ、彼に従う者たちも散り散りになっていくとしても、なお父なる神のご計画は間違いのないものであり、御心のままにお任せして良いものであるとの信仰をイエスは私たちにお示しになっているのです。この御父への信頼とご計画の確かさに従うイエスの姿勢こそ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」という信仰を体現していると言って良いでしょう。


2,人間の弱さを知っておられるイエス

自分だけは大丈夫という過信

 そうしたイエスの御姿と対照的に描かれているのが、ペテロや弟子たちです。イエスは弟子たちにはっきりと告げられました。「あなたがたはつまずきます」と。さらにペテロに対しては「まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」(30節)と言われました。ペテロや弟子たちの応答は、主からの「つまずきます」に対しては、「つまずきません」であり、「わたしを知らないと言います」に対しては、「あなたを知らないなどとは決して申しません」でした。特に、ここでは弟子たちを代表するペテロの返答が書かれています。「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません」(29節)。これは彼が豪語したと表現できます。皆がつまずいても、私だけはそんなことはない、私は違うのだとペテロは言い放ちます。さらに、31節で「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と力を込めて言い張っています。

主を否んだ弟子たち

 この「わたしを知らない」ということばは、「わたし(主)を否む」という意味で、その関係性や繋がりを全く否定するということです。信仰という面から言えば、棄教する、信仰を捨てると表明するのと同じことです。30節でイエスが言われたことばは強烈でした。「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」。私だけは違う、大丈夫であると思い込んでいたペテロ、しかし、彼はイエスを三度否認し、主を見捨てて逃げてしまうのです。それは他の弟子たちも全く同じでした。彼らはつまずきましたし、主を否みました。彼らはイエスを裏切ってしまうのです。これはまさに信仰の挫折、敗北でした。「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」(Ⅰコリント10:12)と戒められていることを心に留めましょう。マルコの福音書は弟子たちの姿を、このように強がりを言って挫折し倒れてしまうような愚かな存在として描いています。しかしイエスは、彼らを見捨ててしまうことはありません。主は、人間という存在の脆さ、弱さを知り尽くしておられます。もちろん、弱さや愚かさをただ容認しているのではなく、そのことを彼らに自覚させ、ご自分にならう者として、従い歩んでいくように彼らを励まし、強めようとなさるのです。このように見ていくと、主に従う教会という群れは、挫折からスタートしたと言えるかも知れません。倒れたところから始まったのです。


3,弟子たちを先立って導かれるイエス

 最後に確認したいところは「しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます」(28節)というところです。このことばはこの書の終わりで再度語られます。「さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」(16:7)。イエスの納められたお墓で、真っ白な衣をまとった青年、すなわち御使いにより、3人の女性たちがそう告げられます。この福音書によれば、ガリラヤはイエスが神の福音を宣べ伝えられたスタート地点でした(1:14)。主要な弟子たちはそこでイエスから召命を受けたのです。ガリラヤから再出発する、新たな始まりを迎える。そんな未来がここでイエスによって前もって語られたのです。イエスは言われるのです。「わたしは先に行く。先に行って、待っている」と。この「先に行く」ということばは、「先立って導く」ということが元々の意味です。新たなステージの扉をあなたがたと開くために、わたしは先に行くと、主は私たち一人ひとりに対して、仰っています。