「ゲツセマネの祈り」

マルコの福音書 14:32ー42

礼拝メッセージ 2022.1.2 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,苦しむ姿を現されるイエス

ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて

 よく知られたこの場面ですが、詳細に見るとこうなります。過越の食事(主の晩餐)の後、オリーブ山に向かったイエスと弟子たちでしたが、このときにはイスカリオテのユダは、祭司長たちのもとへ向かったでしょうから、弟子の数は全部で11人でした。一行はゲツセマネという名前の場所に着きました。ゲツセマネとは油を絞るという意味です。オリーブの木が多く茂っていたこの山で、収穫されたオリーブの実を絞って油を取るところであったのでしょう。そこに到着したとき、11人のうち、8人の弟子たちにはその場に座って待つようにイエスは指示されました。そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを連れてさらにその先へ進まれました。この3人は、弟子の中でも最もイエスのおそば近くにいることを許された者たちでした。この福音書によると、彼らだけをイエスが連れ出されたことがこれまで二度ありました。
 一度目は、「タリタ・クム」(少女よ、起きなさい)と言われて、会堂司の死んでいた娘をよみがえらせたときです(5:35〜43)。多くの奇跡、力あるわざをされたイエスさまでしたが、完全に死んでいた人を復活させるという驚くべき御力を示された出来事でした。そして二度目は、高い山に登られて、そこでイエスの御姿が真っ白に輝き、エリヤやモーセとともに、ご自身が栄光ある偉大な姿を現された時のことでした(9:2〜8)。このように、それまで一緒にいて、見ていたイエスとは明らかに異なる御姿を示される時に、この3人だけが選ばれ、特別に霊的奥義を経験させてもらえたのです。読者である私たちもその恵みの一端を味わわせていただきましょう。

ふつうの人間のように苦しまれるイエス

 しかし、このゲツセマネでの出来事は、死者を復活させることや栄光の顕現といったような、これまでのこととはかなり違っています。これまでのことは、主が人知を超えたお方であることを印象づけるようなことでした。しかし、ここでこの3人の目の前でイエスが示されたのは、全くふつうの人間のように、苦悩される姿でした。イエスは「深く悩み、もだえ始め」られました(33節)。そのように3人に向かって、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい」(34節)と語られました。これまでペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人は、このように苦しまれるイエスの御姿を見たことはなかったと思います。イエスは常に平静で、嵐が来ても、悪霊どもが脅して来ても平然と対応され、何にも決して動じることのない強いお方でした。確かに、この書の中でここが唯一、そんなイエスの様子を描いている箇所です。

イエスは私たちのために苦しまれた

 ここに示されていることを通して、おもに二つのことが教えられます。一つ目は、本当にイエスは苦しまれたということです。もしイエスが、栄光に輝き、死んだ人をよみがえらせるほどの御力を持たれていたというだけの理解で終わるなら、イエスを単なる超人、神の化身として捉えてしまうことになるでしょう。しかも、そういう見方でこれから示されていく受難の出来事を見るならば、イエスにとって十字架は本当は何も苦しいことではなく、人間を救うために準備された神の象徴的パーフォーマンスにすぎないことになってしまいます。しかし、イエスはそのようなお方ではなく、まことの人となられたお方でした。傷つき、苦しみ、不安になり、弱ることもある人間となられたのでした。そしてこれから十字架にかかることになるその苦しみはいかなることなのか、このゲツセマネの出来事がなければ、側近のペテロたちでさえ、何も知らぬままに終わってしまうことになったかもしれません。
 二つ目に、この苦しみは私たちすべての人のために受けられるものであったということです。十字架につけられるという精神的肉体的な苦しみというよりも、父なる神によって定められたことであり、人々を贖うための、罪のゆるしをもたらすためのものであり、死であったということです。それゆえに、イエスがここに背負われていた苦悩と重圧というものは、人間が味わうどんな苦しみよりも大きくて、深いものだったのです。仮にすべての人間がこれまでに経験し、そしてこれから出会うことになる苦痛や悲しみを全部まとめて大きな一つのものにしたとしても、ここでイエスが負われた苦難と比べれば、それははるかに小さいものになると思います。


2,祈る姿を現されるイエス

アバ、父よ

 まず、イエスは「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります」(36節)と祈られました。注目すべきは、「アバ」ということばです。これはアラム語で、子どもが「父よ」「お父さん」と呼ぶときの表現だと言われます。近くで弟子3人がその耳で直に聞いた、イエスの祈りのことばの音声記録でした。このことばは初代教会の人々の間で、イエスが発せられた祈りの声として、大切に語り伝えられたのです。おそらく、この福音書が書かれた時代において、キリスト者たちは神への祈りの時にイエスにならって「アバ」と呼びかけて、祈っていたと思います。それでパウロはローマ人への手紙でこう書きました。「この御霊によって、私たちは『アバ、父』と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。」(ローマ8:15〜16)。祈りの基礎となる前提は、神が私たちのお父さんであり、私たちは神の子どもであるということです。苦しみのただ中にあっても、私たちは神に向かって、イエスのように「アバ」と叫び、信頼をもって心からの助けを求めることができるのです。子である者として神は私たちのことを愛し、祈りの声に耳を傾けてくださるのです。

祈りは神とのやりとり

 そして、次にこの箇所で、祈りについて学ぶことのできることは、祈りは神との交わり、やりとりであるということです。36節の続きを見ると、「どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」と祈られています。イエスがこのゲツセマネで祈られたことを見ると、これが一度だけの祈りではなかったことが明らかにされています。イエスはここで三度祈られたのでした。三度祈られ、三度彼らのもとへ戻って来られました。三度祈られたあとに、イエスは「立ちなさい。さあ、行こう」と仰って弟子たちを促しました(42節)。このあとこの書が示している事実は、イエスは同じような苦悶する姿を一度も見せなかったことです。それは、主が祈ったことに対する御父からの語りかけを、ここですでに受け取っておられたからでしょう。イエスがその祈りを通して教えてくださっているように、祈りとはそういうものなのです。神様へ伝えたいことだけをぶつけてそれで終わってしまうのであれば、それは単なる願かけにすぎなくなります。祈りは神との会話であり、交わりです。祈りは単に願うことばかりでなく、神からの御声を聞くこと、言わば受け取る祈りという面もあるのです。