「裁判を受けるイエス」

マルコの福音書 14:53-65

礼拝メッセージ 2022.1.16 日曜礼拝 福音聖書神学校 神学生:山本 翔一


 今日は、神様を被告人席に着かせ、神を裁く裁判官になってしまう人間に対して、そのようなわたしたちをも受け入れ、ともに歩もうと招いておられる神の姿を見たいと思います。

神を拒否する裁判

 ゲッセマネで祈られたイエス様が真夜中ごろ、ユダの裏切りによって逮捕され大祭司のところに連れて来られたことが、今日の聖書箇所53節に記されています。
 大祭司というのは、神殿の働きだけでなく国政における一番偉い人物であり、宗教事項や政治的なことを決める最高法院の議長でもあります。そして大祭司のところに最高法院の議員である「祭司長たち、長老たち、律法学者たち」が集まり、イエスへの裁判が展開されます。
 しかしこの裁判は、非常に奇妙な状況でなされているのが特徴です。なぜなら、真夜中のゲッセマネでの逮捕の後でまだ鶏が鳴く朝にはなっていない夜中にこの裁判は開催されたからです。さらにもう一つ異常なこととして、判決が決まっていた、ということがあります。

 そのような異常な裁判ですが、モーセの律法にあるような証言の一致は守ろうともしています。申命記17:6「二人の証人または三人の証人の証言によって、死刑に処さなければならない。一人の証言で死刑に処してはならない。」真夜中に、偽証を使ってでも死刑にしようとする異常な裁判。やり方は律法に従っているとは言え、神の思いとは程遠い、神の民のものとは思えない裁判が行われていました。
 そしてここに、形だけは神様が示した方法に則ってやっているように見せつつ、「イエスを死刑にする」という自分たちの思いを成そうと画策する、自分を神として歩む人間の姿を見ることができます。

 偽証では判決が出せなかった裁判は、「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか(61節)」という大祭司の質問で状況が一変します。ほむべき方の子、言い換えるなら神の子とは、神と同じものという意味であり、イエス様に対し「神から来た者であり、神なのか」と問うているのです。この質問に対するイエス様の返答「わたしはそれです」は、原語のギリシャ語では「エゴ・エイミー」という言葉です。これは出エジプトでモーセに神が示された名前「わたしはある(出エジプト3章14節)」と同じ表現です。
 ユダヤ人たちが信じている神の名前を用いて、イエス様はご自分をその同じ神だと答えたのです。それに対して大祭司をはじめ最高法院全体が、「神を冒涜する発言」としてイエス様に死刑判決を出しました。


神の子イエス

 全てをご存知で歩まれたイエス様は、なぜこのタイミングで、ご自身が神の子キリストだと言われたのでしょうか。
 マルコの福音書を見ると、これまでイエス様自身がキリストや神の子であると公に認めることはなく、十字架を目前としたこの時初めてご自分が神の子キリストであることを明らかにされたのです。
 マルコの福音書や他のすべての福音書のテーマの1つは、実際に地上を歩まれたこのイエスは誰なのか?ということでした。マルコの福音書の1章1節には「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」とあり、この福音書全体が、神の子でありキリストである、イエス様の福音を示しているのだと、冒頭で提示しています。そして今日の箇所でイエスご自身が、ご自分が十字架にかけられる神の子キリストであると言われるのです。

 このようにイエス様が自分が神であることを明らかにしたのに対し、人々はそれを拒否し死刑にしました。ここにイエスの敵対者たちの、神を神としない、自分自身を神とする姿、というものを見ることができます。イエスの敵対者たちは「自分は律法を守って生きている。神を知っている。間違うはずはない。」そう思って、自分の考えを変えようとしませんでした。そこに神を神としない者の姿、裁く者となった人間の姿を見ます。
 そしてそれは、私たちも持っている姿でもあると思うのです。
神様を信じていても、私たちの日々の生活での行動や発言に神様の価値観や御心を見ることはできるでしょうか。裁判官として、ほかの人を、そして神様を、裁くようなことはないでしょうか。
 ですがイエス様は、神様を必要しない人たち、最初から神様を拒絶している人たちの中にあって、私たち人類が父なる神様との関係に立ち返ることができるように、十字架の道を歩まれ、そして死なれたのです。神なるお方が、「神を必要としない」と神を拒否する人間によって殺されました。しかしそのイエス様の十字架の死が、神を神とせず、神を必要としない人間の罪に対するなだめの供え物となりました。神様との壊れてしまった関係を回復するための贖いの代価として、捧げられたのです。


私たちの歩み

 私たちは、神様を必要とする歩みか、それとも神様を拒否する歩みか選ばないといけません。そしてすでに自分の罪を認め、神が必要だと求め、罪を悔い改めて、神様とともに歩む決断をしたクリスチャンにも、課題があります。それは私たちの日々の生活の中で、イエス様を王として心の王座にきちんと迎え入れているか、イエス様とともに歩んでいるか、という信仰生活の課題です。
 日々の生活の中で「自分が神になったかのような考えを持つことはないか。祈りと御言葉をもって神様とともに歩み、また神の御心を求め、自分の思いや計画を委ねているだろうか」と問わなければなりません。

 日々イエス様とともに歩むということは、私たちの生き方が変えられていくということです。また変えられることを求めることです。その歩みの中で、私たちは自分の中での優先順位を変えていくことも、求められていきます。神様は私たちが握っている計画よりも、もっと素晴らしい計画を持って導いておられるお方です。その素晴らしい愛の神様が十字架を通して復活されたことを信じ、イエス様を王として崇め、神として迎え入れて、従っていきましょう。