マルコの福音書 16:9-20
礼拝メッセージ 2022.3.20 日曜礼拝 牧師:太田真実子
1.イエス様の復活の話を聞いても、信じなかった
今回の聖書箇所は、現存する最も古い写本には欠けているので、マルコの福音書の原本には執筆されていない文章だと考えられています。しかし、最も古い写本が8節で終えられていることの確かな理由は誰にもわからないことや、9-20節を加える写本が複数あることから、このように括弧書きで記されています。
多くの人に考えられている通り、事実としてこの箇所が追加文であったとしても、それによってこの文章の価値が下がるということにはならないでしょう。他の福音書と共通する内容が多く、史実としても間違った内容が書かれているわけではありません。
この箇所は、他の福音書に書かれている共通のエピソードに比べて非常に簡潔です。(マグダラのマリアについての記事はヨハネ20:11-18。田舎に向かっていた2人についての記事はルカ24:13-35。)
他の福音書にある同様の記事と比較して、マルコの福音書特有の観点は、「イエス様の復活に関する証言を聞いた人たちは、信じなかった」と書かれていることです。他の福音書では、イエス様の復活を他の人に話したことは書かれていても、その証言を聞いた人たちが「信じたかどうか」についてはあまり触れられていません。一方、マルコの福音書に書かれている内容はとてもシンプルで、「イエス様の復活がどのようであったか」ということよりも、「それを聞いた人たちが信じなかったので、イエス様は彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった」ということです。
2.不信仰と頑なな心をお責めになったイエス様
マルコの福音書によると、イエス様の復活に関する証言を聞いただけで信じた人はいませんでした。マグダラのマリアは嘆き悲しんでいる人たちのもとへ行って、喜びを伝えましたが、だれも信じなかったのです。その次の記事の田舎に向かっていた2人とは、おそらくエマオに向かっていたクレオパともう1人の弟子のことです。その途上で出会ったお方がイエス様だと気がついた2人は、エルサレムに引き返して、ほかの人たちに知らせましたが、この話も信じてもらえませんでした。このような人々の反応について、イエス様は「不信仰と頑なな心」と言っておられます。
イエス様はこのことをお責めになられたようですが、「信じていなかった複数の弟子たちが、イエス様の復活の証言者となった」という意味においては、弟子たちの不信仰がイエス様の復活の出来事をより確かなものにしていると言えるかもしれません。歴史上の出来事は、証言や証拠が信用できるものと見做されると、史実として認められるようになります。イエス様の復活については、多数の証人が存在しているうえに、復活を信じようとしなかった人たちがそれを証言するようになりました。
キリスト教は、思い込みが激しい人たちや騙されやすい人たちによって生み出されたものではありません。現代においても、「復活などあり得ない」という常識や固定概念さえなければ、「イエス様の復活の出来事は限りなく確かな史実である」と認められるほどの証言や資料が揃っているわけです。
復活を信じなかった弟子たちをイエス様がお責めになったのは、彼らが自分の中にある常識や固定概念に囚われていて、そこから外れているものに対して心を閉ざしていたからではないでしょうか。弟子たちが嘆き悲しんでいた姿から、イエス様を愛し慕っていたことは十分にうかがえます。
しかし、イエス様のことばに思いを巡らし、真実を知ろうとする態度ではなかったようにも見受けられます。以前から、イエス様は弟子たちに、ご自分が死んでよみがえることを明言しておられたはずです。それでも、弟子たちはそれを理解することができませんでした。自分の内にある常識や固定概念よりも、イエス様のことばを頼りにして信じようとする心を、イエス様は求めておられたのではないでしょうか。
3.知恵に欠けている人がいるなら
十一人の弟子たちの前に姿を現されたイエス様は、「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」とお命じになりました。イエス様は直前までお叱りになっていた弟子たちに、重要な任務をお与えになったのです。イエス様は、私たちの内にある不信仰や頑なな心を叱りながらも、私たちに重要な任務を任せてくださるお方です。
「信じてバプテスマを受ける者は救われます」とは、「バプテスマを受けることによって救われる」ということではありません。バプテスマという行為そのものに特別な力が宿っているのではなく、イエス様の恵みを信じる者が救われるということです。しかし、ただ心の内で信じていれば良いのかというと、そうではなく、パウロは「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」と言っています。自分の信仰のしるしとして受けるのがバプテスマです。
最後に、17節の「信じる人々には次のようなしるしが伴」うということについて、どのように考えたら良いでしょうか。確かに、使徒の働きを見ると、弟子たちはここで書かれているような奇跡をいくらか行っています。これによって、この時代にキリスト教が急速に広がっていったとも言えるでしょう。
ここで言われているしるしについて、完全な説明をすることはできませんが、神様が支配しておられる歴史の中で、出エジプトの時代にも多くの奇跡があったように、特別な時代があったのではないかと思います。8章でパリサイ人たちが天からのしるしを求めた時に、イエス様が「この時代はなぜ、しるしを求めるのか」と言われたことを思い返すと、しるしはとは必ずしも人にとって良いものではないことがわかります。ですから、16-18節の解釈について断言できることは何もありませんが、私たちはしるしがあってもなくても、イエス様が聖書を通して語ってくださっているみことばを信じていきたいと思います。
私たちは時に、イエス様を信じていても、イエス様が今生きておられ、働いておられることを信じられないことがあるかもしれません。イエス様を慕っていた弟子たちでさえ、不信仰と頑なな心を指摘されています。復活を信じることができなかった弟子たちの姿から、私たちは自分の理解が追いつく範囲内でイエス様を理解しようとして、失望するのではなく、イエス様のことばを信じようとする心を持ち続けるキリスト者でありたいと願います。そして、一方で、私たちの不信仰や頑なな心について時に叱り、時には重要な任務を任せて期待をしてくださるイエス様の恵みにも感謝したいと思います。