「信仰と知恵」

ヤコブの手紙 1:1-8

礼拝メッセージ 2022.3.27 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1.ヤコブの手紙

 新約聖書には、「公同書簡」と呼ばれる7つの書簡(手紙)があります。ヤコブの手紙は、そのうちの1つです。公同書簡とは、パウロの手紙などのように、明確な宛名としての教会名や個人名がなく、信徒全般を対象とした書簡であることから、そのように呼ばれています。
 ヤコブの手紙の冒頭では、ヤコブと名乗る者が「離散している十二部族」にあいさつしています。著者ヤコブについては、明確ではありません。新約聖書中には4人のヤコブと呼ばれる者が登場します。⑴ゼベダイの子、ヨハネの兄弟ヤコブ、⑵アルパヨの子ヤコブ、⑶ユダの父ヤコブ、⑷イエス様の兄弟ヤコブ。3世紀前半頃に神学者オリゲネスがイエス様の兄弟ヤコブと、このヤコブの手紙を結びつけたことから、伝統的にはイエス様の兄弟ヤコブが著者であると言われています。もしそうだとすると、彼は62年頃に大祭司アンナスによって捕らえられて、石打ちの刑によりエルサレムで殉教したと伝えられているので、執筆年代は少なくともそれ以前のことになります。
 宛先の「離散している十二部族」とは、そのままの意味で理解すると、イスラエルの十二部族、つまり、離散しているユダヤ人クリスチャンということになります。しかし、ここではユダヤ人に限らず、キリスト教の迫害によって各地に散った霊的なイスラエルであるすべてのクリスチャンに向けてあいさつを送っているのではないかと考えられます。
 ヤコブの手紙と言えば、ルターがこれについて、「これらの書(ヨハネの福音書やパウロ書簡等)と比べるなら、ヤコブの手紙は軽い藁の書である。なぜなら、これらは福音的性格を何ら持っていないからである」と書いたことでも有名です。その理由のひとつに、パウロが「信仰によって義と認められる」ことを語る一方で、ヤコブの手紙には「信仰も、もし行いがなかったら、それだけでは死んだものです」というように、「行い」が強調されることに矛盾を覚えたのではないかと言われています。このルターの発言は、「聖書はすべて神の霊感によるもの」として、当然のように聖書を尊んでいるクリスチャンにとっては、驚くべき発言かもしれません。
 しかし、「藁の書」という表現の是非は置いておくにしても、せっかくの機会ですので、礼拝説教のこの時に限らず、それぞれがヤコブの手紙を開いてじっくりと読み、考え、みことばに教えられる時になればと願っております。


2.様々な試練にあうときはいつでも

 私たちにとって「試練」とは様々ですが、ヤコブの手紙を受け取った主にある「兄弟たち」には、クリスチャンであるがゆえに迫害を受けているという背景があったことを覚えながら、読んでいきたいと思います。
 読者たちは、すでに信仰の試練を経験していました。「試練」と翻訳されている「イラスモス(ギリシャ語)」は、「誘惑」とも訳すことができます。ですから、「試練」と「誘惑」の二重の意味を持つ言葉として理解できます。つまり、ここで言う「試練」とは、試練であるとともに、誘惑ともなり得る出来事を指します。
 そのうえで、「様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい」という言葉を、キリスト教の迫害という背景を念頭に置いた兄弟たちへの励ましとして読むべきです。私たちが考えるすべての「試練」について、2節の言葉を切り取るようにして理解しようとするならば、それはヤコブの手紙が意図するものではありません。ヤコブは、信仰の訓練となる「試練」について、クリスチャンたちが信仰を持って受け止めることを期待して、励ましているのです。
 そして、試練を通して信仰が試されて、その結果、忍耐が生まれると言います(3節)。「忍耐」というと、じっと耐えて、ひたすら我慢するというイメージが強いかもしれません。しかし、「忍耐」には、「堅実な・確固たる力」という意味があります。つまり、「成熟したクリスチャンとなるために、何でも我慢して、無となり、忍耐強さを身につけるべきである」というのではなく、試練と呼ぶべき出来事に直面した時、信仰を持って受け止めた結果として伴う堅実さが「忍耐」であるわけです。「信仰が試されると忍耐が生まれる」と聞くと、先に忍耐を得ようと急いでしまうことがあるかもしれませんが、私たちはまず、試練に直面した時の「信仰」(受け止め方)を大切にしていきたいと思います。

 4節では、生まれた忍耐を「完全に働かせなさい」と言われています。ヤコブの手紙は、信仰を持つクリスチャンたちに、非常に実践的なことを教えています。禁欲的な態度で、患難や苦難に無感覚となることを励ましているのではありません。信仰を持って生まれた忍耐には、苦難を正面から受け止めたうえで、それを乗り越える力があります。
 そして、その忍耐を完全に働かせることによって、「何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者(4節)」となります。「完全な者」とは、罪がないという意味での「完全」ではありません。信仰生活の実践面における完全を意味しています。忍耐こそがクリスチャンの信仰の実践を完成させるのです。その「完全さ」に到達しようと思うと途方に暮れてしまいますが、最も基本となるのはやはり「様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思い」、信仰を持って受け止めるということではないでしょうか。


3.知恵に欠けている人がいるなら

 5節では、自分たちクリスチャンの間で、知恵に欠けている人がいる場合について教えています。「知恵に欠けている人」とは、人間の知識のことを言っているのではありません。2〜4節で教えられているように、試練に対して信仰を持って応答できなかった人のことであると考えられます。実際に、試練の中にあって、試練の意味や目的を見出すことのできなかった人がいたのかもしれません。信仰が試練を通して忍耐を生むことを知識として理解していても、それを実践するのは難しいものです。
 しかし、「知恵に欠けている人」、すなわち端的に言うと「信仰」が欠けている人には、求めれば神様が必ず与えてくださると断言しています。神様に従っていくことを願う人には、例外なく必要な知恵が与えられるのです。
 ところが、必ず与えられるとはいえ、与える側のお方の能力を疑いながら願っていたとしたらどうでしょうか。あるいは、自分の利益を考えながら、神様に知恵を求めていたとしたらどうでしょうか。ヤコブの手紙は、ここでもまた信仰と実践を結びつけて教えています。私たちは、懸命に努力して成熟したクリスチャンを目指すのでもなく、自分の成長のために信仰の成熟を願うのでもなく、最後まで信仰を持って主にお従いしてくことができるように、主に必要を求めていきたいと思います。