「人を分け隔てしてはならない」

ヤコブの手紙 2:1-13

礼拝メッセージ 2022.4.24 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1.えこひいきしてはならない

 ヤコブは、えこひいきしてはならないことを訴えています。彼が出した例は、集会において裕福な者と貧しい者との間で接し方に差をつけてはならないというものです。これは、単にキリスト者としての価値観を提示しているだけではありません。このような現実がクリスチャンの集会において起こり、そのことがすでに問題となっていました。
 「えこひいき」と訳されたギリシャ語の単語は、字義どおりの意味では、「顔を受け取る」と訳すことができます。それは、肉体的な特徴・社会的立場・人種など外見に基づいて判断し、区別するということです。
 「えこひいきしてはならない」という教えは、旧約聖書の価値観にも通じています。「あなたがたの神、主は神の神、主の主、偉大で力があり、恐ろしい神。えこひいきをせず、賄賂を取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行い、寄留者を愛して、これに食物と衣服を与えられる(申命記10章17-18節)」。神様の御前には、国籍・人種・階級・性別・宗教による障壁がありません。ところが、残念ながらいつの時代にも人々の間ではえこひいきがあります。モーセの律法が与えられた当時のイスラエルの民においては、特にみなしご・やもめ・寄留者たちが弱い立場にあり、苦しい生活を強いられていたようです。それに対し、神はそのように理不尽な扱いを受けている人たちのために公正なさばきをなさるお方でることが律法を通して語られています。
 そして、イエス・キリストはまさにそのような社会的に弱い者・貧しい者を顧みられたお方でした。だからこそ、ヤコブは「あなたがたは、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰を持っていながら、人をえこひいきすることがあってはなりません」と言い、クリスチャンとしての生き方の矛盾を嘆いています。イエス・キリストを主としながらも、キリストの生き方に反する価値観によって貧しい人たちを軽んじていたのです。

 「えこひいきしてはならない」とは言っても、ヤコブは、目上の人や年長者を尊ぶことを否定しているのではありません。むしろ、聖書は年長者に対する敬意が大切さであることを語っています。
  また、「えこひいきしてはならい」からと言って、すべての人に全く同じ態度で接することは、現実的には難しいでしょう。集会(私たちにとっては教会堂)を訪れる人たちに対して、場合によっては、接し方を変える必要があるからです。それぞれ健康状態や性格に合わせて席を案内する必要があります。
 ヤコブが注意しているのは、身分の高い人を優先することによって、社会的に虐げられている人たちをさらに苦しめていたことです。神様はすべての人が必要に満たされて生活することを願っておられます。それは、私たちが誰かをえこひいきしていては実現されません。


2.もし人をえこひいきするなら

 そしてヤコブは、神の価値観はこの世のそれと逆転していることを思い出すようにと主張します。神様は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束された御国を受け継ぐ者とされました。それにもかかわらず、イエス・キリストを礼拝する集会の場において、そのように選ばれた人たちが虐げられていたのです。

 ヤコブが叱責した理由はそれだけではありません。ここで言われている「立派な身なりの人」とは、ただ経済的に裕福であったということ以上の背景があります。
 当時(紀元1世紀のパレスチナ)は、少数グループの裕福な地主と商人たちが力を拡大する一方で、多数の人々は土地の制限を受け、ますます貧しくなっていったと言われています。経済的階級の格差がありました。ヤコブの手紙の読者のほとんどは、おそらく農業に従事する階級に属する貧しい人たちだったのではないかと考えられます。
 経済的格差による抑圧に加えて、この頃はまだ小さな共同体であったキリスト教会は、宗教的な迫害も受けていました。この「迫害」をする側であったのが、立派な身なりの裕福な人たちであったのです。彼らは、経済的利得のためにクリスチャンたちを裁判所に引いて行って、財政面で搾取していたと言われています。そうであれば、キリストを軽蔑し、財政的なことのためにクリスチャンを対象にして裁判手続きを行う裕福な人たちのことを、この手紙の読者であるクリスチャンたちはえこひいきしていたということになります。
 ヤコブはこのえこひいきが「罪」であり、「律法の違反」であると断言しています。それも、たとえ他の律法をどれほど守っていても、この1点において罪を犯すのであれば、責任を問われることになると言います。ほとんどの律法を守っていたとしても、1つでも違反するものがあれば、それは律法の中心核である「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という教えに反することになるからです。


3.主のあわれみを受けている者として

 「律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われる」というヤコブの表現には、難しさを覚えるかもしれません。私たちは、律法を完全には守り行うことができないからです。ヤコブがここで伝えたいと願っていることは、①すべての律法は「隣人愛」に準ずるものであり、それを無自覚に違反していることへの叱責と、②自分自身が主のあわれみを受けている者としてふさわしく生きることへの勧めではないでしょうか。
 ヤコブが手紙を宛てたクリスチャンたちは、おそらく自分たちの行いがキリストの価値観に反していることに気がついていませんでした。私たちも、律法の中心核は「神を愛し、隣人を愛する」ことであると心に留め続けなくてはなりません。そうでなければ、クリスチャンの集まりであるにもかかわらず、キリストにある平和を破壊してしまうことがあるからです。
 また、何より私たち自身が主にあわれみを受けた者であることを忘れてはなりません。私たちには、あれみと恵みによって、私たちを受け入れてくださるお方がおられます。ですから、律法は私たちにとって脅しでもなければ、重荷でもありません。神様に深く受け入れられているからこそ、隣人愛のゆえに喜びをもって律法を守り行っていく者とさせられるのです。
 私たちは主のあわれみを受けている者として、愛と平和の実現のために主が与えてくださった律法を、喜びをもって守り行っていきたいと思います。