「行いを欠く信仰は死んだもの」

ヤコブの手紙 2:14-26

礼拝メッセージ 2022.5.1 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


行いのない信仰?

 結論を言ってしまえば、ヤコブ書によれば、行いのともなわない信仰はありえなません。行いがなければそれは信仰とは言えないのです。信仰とは、聖書の神を信じていくことです。そのことは19節に記されている。「神が唯一である」という言葉は、旧約聖書の本質的な教えです。神を信頼し、そのように生きていくことを信仰と呼んでいます。
 行いのない信仰がありえない理由として、そのような信仰は役に立たないからであると言われています。その役に立たない内容は、困難を経験している人々を助けることができないからとされています。衣食住で困っている人がいたときに、親切な声をかけるだけではその人の必要が満たされるわけではありません。言うだけでは、必要な物資は届きません。届かなければ、下手をするとその人は死んでしまいます。一方、14節には、行いのない信仰はその人を救わないと言われています。自分にとっての隣人や、困っている人を助けることができないばかりか、その人自身を救うこともできないと厳しい言葉で非難されています。行いのない信仰は、他者をもその人をも救うことはできないのです。むしろ、信仰自体が死んでいると言われています。


信仰と行いを区別する?

 18節の言葉は、少し説明が必要です。新改訳第3版では18節の最後まで、誰かが実際に述べた言葉として引用符がついています。しかし、この言葉は「私は行いを持っています。」で終わっていると考える方が良いでしょう。「あなたには信仰がある、私には行いがある」とは、ある人には信仰があり、ある人には行いがある、そのような意味で使われています。人によって信仰がある人と信仰とある人がいて、両者は区別されるという考え方です。信仰と行いを分けてしまう発想がここにはあります。しかし、ヤコブ書はそのような考え方に反論します。行いのない信仰があるならば見せてみろと言うのです。信仰自体は信じること、信頼することですからそれ自体を見せることなど不可能でしょう。逆に、行いをもって信仰を見せることができると言います。神に対する信頼は、行いをもってはじめて証明できると言っているのです。つまり、信仰と行いとを分けるという発想自体が間違っていることになります。
 神についての教えを「正しく」理解することは重要でしょう。「正しい」教えなしでは、やはり間違った道に進んでしまいます。でも、その教えの「正しさ」だけならば、神に敵対する勢力もそのことを知っています。神への信仰というならば、行いがともなうはずなのです。


他者を救う行い、生き方を変える信仰

 ここで考えている行いは、他者との関係に基づいていることを指摘しておきましょう。ヤコブ書全体でも行いについて書かれている場合、すべてとは言いませんが、その多くは他者との関係を考慮することではじめて意味のある内容になっています。具体的な例として挙げられているのは、困難を経験している人々への支援です。まさに、他者との関わり方が直接的に課題とされているのです。私たちが神を信頼して生きる意義がここに求められているのです。
 もちろんヤコブ書もそうであるが、聖書が述べている信仰とは、単なる宗教的な信条や信心ではありません。また、永遠の命の約束の保証という意味だけでもありません。行いが達せられないから信仰の意味が失われるとは言われていません。問題は信仰者としての生き方です。この地上における、その人の生き方そのものです。信仰は自分が生きていく上で幹あるは土台となる価値観と言い換えることができます。私たちが日常に暮らしていくこととは、何らかの行動をすることです。その行動は自分の価値観に常に裏打ちされています。私たちの生き方の価値観とその具体的な生き方は直結することになります。特に重大な決断が迫られたり、誰かから助けを求められたりするときには、その価値観が言葉や行為となって表れてきます。
 ヤコブ書は善い行いをしなさいと言っているのではありません。他者との関わりを神の意志に適ったものにするために、自分の価値観を変えなさいと言っているのです。イエスはそれを「メタノアイ(回心、悔い改め)」と言いました。価値観を変えれば、生き方も行動も変わるのです。この順番は逆ではありません。ヤコブの言葉は痛烈ではあるが、それは私たちが互いに大切にしていく生き方を私たちが選ぶためです。