ヤコブの手紙 3:13-18
礼拝メッセージ 2022.5.15 日曜礼拝 牧師:南野 浩則
行いの由来
語ることの責任と聞くことの責任について語られた後に、良い行いと悪い行いとの由来について述べられています。もちろんその由来について説明するだけがこの聖書箇所の目的ではありません。その由来を理解する中で、神を信頼して生きる者のあるべき姿、行いについて勧められています。
対照的な生き方
ここで対照的な二つの生き方が示されています。一つは知恵ある生き方であり、もう一つは自己中心的な生き方です。もちろん人間はそのように単純に区別はできません。誰だって賢く生きていますし、同時に自己中心的でもあります。聖書は人の生き方を説明するのに、このような単純な言い方をして言いたいことを分かりやすくしようとすることがあります。この聖書箇所もそうです。
自己中心的に生きることは、自慢、嘘、虚栄心に陥りやすいと警告され(14節)、そのような考え方は神に逆らうものであるとされています。なぜならば、神に敵対する勢力に由来するからです。その結果は混乱であり、悪い行いです。新約聖書にはその悪い行いのリストがあちらこちらで記されています(ガラテヤ書5章など)。党派心、偶像礼拝、敵意、不和など他者に迷惑や損害を与えてしまいます、相互の関係が切れ、信頼関係が失われる、そのような姿勢や行為がそのリストには多く述べられています。神に由来しない自己中心とは、他者を大切にしない思いや姿勢となって表れてきます。
賢く生きるには神からの知恵(上からの知恵)が必要です。聖書が語る知恵とは知識や情報量を言うだけではありません。それ以上に、生活するために求められる指針のようなものです。どの社会にも諺があるでしょうが、そこには機知に富んだ言葉があり、日常生活に役立つ内容が豊富に含まれています。聖書が語る知恵もそれに似ています。ただ聖書の場合、その知恵が神の意志につなげられているとことに特徴があります。本当の知恵とは、つまり真に私たちが生きていけるためには、神の価値観を基礎に生きていくことであると言われています。
そのように上から与えられる知恵、神に由来する知恵とは、柔和であり、分別をもたらし、その人の行動として現われてくるものです。これまでもヤコブ書の中で再三にわたって語られてきたことです。信仰と行いは不可分であるのと同様に、神からの知恵はその人の行動・生き方に直結しています。17節で語られている上からの知恵は、他者への配慮に満ちたものとなっていることが分かります。温かさで包み込むようなイメージが用いられていて、良い実に満ちていると言われています。実とはその人の行動でしょう。そして、上からの知恵には偽善や偏見がないとも言われています。偽善・偏見は他の人々を貶めるものです。そのような姿勢や行いが見当たらないとされています。
平和への行い
18節ではそれらをまとめて平和と呼んでいます。上からの知恵は分別ある行いを通じて、平和を作り出します。聖書は様々な箇所でその平和について語っています。その強調は、私たちメノナイト教会の特徴でもあります。聖書的平和が、争いがない状態を意味することが実際には多いと言えます。では、争いがなければ聖書の言う平和が達成されたのでしょうか? そうとは言い切れません。聖書の平和とは神の意志が実現していることであり、人々が神の意思を尊重し、それに従って人々が互いに尊敬しあって助け合うことを意味しています。神が上から人間に知恵を与える意義は明確です。知恵は神の人間に対する最大の配慮(救い)を実現するために与えられます。救いの内容を考えれば、他者のことをまったく考慮しない、その都合を考えない、自己中心的に生きることを私たちは選ばないことになります。
神は知恵だけではなく、他にも様々な言葉によって私たちを神の期待する平和に導こうとします。旧約には神とその民の物語が記されています。同じく旧約には律法があり、預言者たちの言葉が残されています。新約聖書にはイエスの言動が記録されています。初代教会の指導者たちの勧告の言葉が述べられています。そのすべてが神の意志を解き明かそうとしており、私たち人間が最善に生きることができるように配慮されているのです。つまり私たちが神の平和に生きるためです。聖書を共に読みながら神の意志を知り、日常の暮らしにその神の意志の実現を経験しながら生かされたいと思います。