ヤコブの手紙 4:1ー10
礼拝メッセージ 2022.5.22 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,教会の中での戦い
今回の箇所だけでなく、新約聖書には教会内の争いや葛藤といった記述があります。たとえば、コリントの教会では内部的に争いがあり、分裂状態に陥っていました(Ⅰコリント1:10〜11)。ピリピの教会では指導的立場にあった二人の女性の間に確執があったことを想像させる記述があります(ピリピ4:2〜3)。初代教会の初期には、ギリシア語を使うユダヤ人とヘブル語を使うユダヤ人との間に食事のことでもめごとがありました(使徒6:1)。それは良いことではなく、解決せねばなりませんし、互いに赦し合い、和解していかなくてはならないことです。しかし、ここでヤコブは、単に互いに赦し合いなさいと言わなかったのです。口先だけの表面上の解決で済ませることを良しとしませんでした。むしろ、彼はもっと奥深く問題を掘り下げていき、人間の心の底の底にまでメスを入れて、その根源をあぶり出し、原因となる害悪を取り除こうとしています。それが「あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか」という問いかけに表れています。ギリシア語文では「どこから戦いが、どこから争いが…」と「どこから」という単語が繰り返されています。実際に起っている戦いは結果であって、その原因はいったいどこから来るのか、どこにその悪い根があるのか、ヤコブはそれを問題にしています。それを探り、気づいて、何から始めなくてはならないのかを示して、真の悔い改めを迫るのです。
2,心の中での戦い
戦う欲望
そこでヤコブは第一に、人間の内側にある欲望に焦点を当てます。1節後半に「ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか」と戦いの源を明らかにしています。問題の根源は、私たち一人ひとりの内側にある「戦う欲望」です。「戦う欲望」という表現ですが、これは2つのことばです。まず「欲望」というのは3節の「快楽」と訳されたものと同じ語で、良くない楽しみ、悦楽を指すことばです。そして「戦う」というのは、「兵役に服している」とか「軍隊が進軍している」という意味です。したがって、これは戦いたいという欲望ゆえに、戦ってしまうという単純なものではなく、強力で抑えきれないほどの力で動かされてしまうような、抗し難い激しい欲望のことを指しています。
「人が誘惑にあるのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(1:14〜15)。創世記で、弟アベルへの妬みと憎悪を抱くカインに対して、主は言われました。「もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」(創世記4:7)。私たちは皆、「それを治めなければならない」のです。心の中で沸き起こる欲望、罪の思い、それをもっともらしいことで正当化して覆い隠し、自分の心と向き合わないまま、「あなたはそれを治めなければならない」と主が心の中で警告しておられるのにもかかわらず、抵抗することがないと、ここでヤコブは戒めているのです。
正しく祈れているか
2〜3節には、私たちの願い求める思い、それは当然、祈りの生活と結びつくのですが、そこにもヤコブは、あなたがたのその祈りの方向やあり方のままで良いのか、と問うています。願っても得られない理由を2つ挙げています。1つは「あなたがたが求めないから」と言います。端的に言えば、祈らないことが原因であると語っています。もう1つの原因は、「悪い動機で求めるから」と述べています。この「悪い動機で求める」というのは、正しく祈れていないということを指摘しているのです。自分の祈りが、神の栄光と賛美のためにではなく、利己的な考え、欲望のためになされているということです。ヤコブが糾弾しているのは、そのような人たちが、神の恵みと自分の罪について悟りが深まるためではなく、ただひとえに自分が地上においての精神的あるいは物質的な安楽や富にあずかることに終始していることへの問題です。そして、それが次に示されているこの世に対する愛や執着といったことに繋がります。
3,目に見えぬ霊的な戦い
節操のない者たち
そこで次にヤコブは、霊的な態度に焦点を当てて、世を愛するならば、神に敵対することになると警告します。これまで、ヤコブは読者への呼びかけとして、「私の兄弟たち」あるいは「私の愛する兄弟たち」と言ってきました。ところが、4節と8節では、「節操のない者たち」、「罪人たち」、「二心の者たち」と言っています。特に4節のことばは激烈なものです。この語は「姦淫する女たち」というのが直訳です。これはもちろん、性的な罪のことを言っているのではありません。むしろ、霊的な姦淫の罪を語っています。神と人間との間にある信仰の契約関係は、夫と妻という結婚の関係に例えられるのです。神は、夫が最愛の妻を愛するように大切に守り、優しく接し、ともに歩んでくださるのですが、妻の立場である人間のほうは、神ではない偶像を夫として慕っているというメッセージです。旧約聖書では何度も、イスラエルの民に対して、このようなことばが比喩的に言われてきました(イザヤ1:21、57:3等)。
神に従いなさい
この世に取り込まれ、霊的戦いに敗北し、教会の中で戦い争っていてはならないと厳しく戒め、ヤコブは7節から10節で、実に10の命令文を書いて、読者に真の悔い改めを迫り、心の中にある「戦う欲望」に勝利せよと激励します。要約すると、その第一は「神に従い、近づけ!」ということであり、それに付随して「悪魔に抵抗せよ!」となります。この命令からわかることは、これまで見てきたとおり、私たちの心の中で、また教会等の私たちの近くの人間関係の中で、戦いがあるということを認識することです。それが目に見えない霊的な戦いに繋がるものであることを悟らなくてはなりません。戦いに必要なことは、まず敵が誰であるのかを知らなくてはなりません。それをヤコブはここまで明らかにしてきたのです。新約全体での表現に言い換えると、「肉」、「世」、「悪魔」という敵です。これらに親しんではならず、愛してはならないのです。むしろ反対し、抵抗し、戦わねばならないのです。これが神に従い、神に近づき、悪魔を退けるということです。そして、最後に「へりくだりなさい」と命じられています。これは悔い改めなさいということです。「自分だけが正しいと考える高ぶりの心を捨てて、悩み悲しみの試練を通って己の愚かさと弱さとをしっかりと見つめ、心から主の御顔の前に出て、へりくだれ!」と命じています。