ヤコブの手紙 4:11-17
礼拝メッセージ 2022.5.29 日曜礼拝 牧師:太田真実子
1.悪口を言ったり、さばいたりしてはならない
11-12節では、悪口を言い合ってはならないことが教えられています。3章では、口から出ることばの失敗について注意されており、それは4章でも触れられている通り、この手紙の読者であるクリスチャンたちの間では実際に戦いや争いがあったからでした。
ヤコブは、悪口を言ったり、さばいたりする者は、「律法について悪口を言い、律法をさばいている(11節)」のだと言います。他人への中傷や軽蔑は旧約聖書の神の価値観に反するものであるから、悪口を言ったり、さばいたりすることは、神の律法について批判しているのと同様であるということでしょう。律法について悪口を言っている自覚が本人になかったとしても、兄弟たちの悪口を言うならば、そのような態度は律法への悪口となることをヤコブは指摘しているのです。
そして、それは身の程をわきまえない高ぶりでもあります。神様から与えられた律法と自分との関係をよくわきまえているならば、人のことを悪く言うことはできないからです。「隣人をさばくあなたは、いったい何者なのですか(12節)」と言われている通り、私たちは時に、神様との関係を忘れて、自分が律法の上に立ち、人をさばきます。その姿こそが、謙遜さに欠け、勘違いに満ちた高ぶりであると言えます。「悪口を言う」という行為は、人間関係を破壊するだけではなく、神様に対する背きでもあるのです。「律法を定め、さばきを行う方はただひとり」で、そのお方は、「救うことも滅ぼすこともできる方(12節)」であることを忘れてはなりません。
私たち人間はしばしば勘違いをして、「自分ははいったい何者であるのか」という理解が抜け落ちてしまってはいないでしょうか。神様と人との関係を正しく受け止めるとき、日頃の自分の態度がいかに高ぶりに満ちたものであることを思わされるのではないでしょうか。
日常生活の中で自分が発していることばは、神様を目の前にしてもためらわずに言えることばであるのか。身の程をわきまえない上から目線な言葉を発してはいないか。他人に対する態度は、神様に対する態度でもあることを覚えて、私たちは日頃の自分の言動を顧みる必要があるように思います。
2.大言壮語して誇ってはならない
ヤコブは次に、自分の存在を過信して、高ぶってはならないことを警告しています(13−17節)。自分が一時的に神様に生かされている存在に過ぎないことを忘れて、自分の人生について考えるならば、それは神を神としない高ぶりに繋がるからです。
「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう(13節)」というのが、当時の一般的な商人の考えであったのでしょう。私たちも、数年先の未来を見据えて、勉強や仕事に励むことがあります。ここでヤコブが指摘しようとしているのは、計画を立てること自体が誤りであるということではありません。指摘すべきは、このような計画の背後にある私たち人間の心の問題です。
あたかも自分の決定が運命を握っていて、眼中に神という存在がないことについて注意しているのです。未来のことは当然、自分の思い通りになると考えるならば、それは身の程をわきまえていないことになります。私たちの命は、「しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧(14節)」のような非常にはかない存在であるからです。生きている人間は例外なく死を迎えます。そのような人の生死については、神様以外の誰もが知り得ません。
ですから、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう(15節)」というように、ヤコブは、自分の限界や立場をわきまえた態度で、主に生かされている者として生きていくことを勧めています。
加えて、ヤコブは、神様というお方がありながらも身の程をわきまえないで、自分を過信して高ぶっているような人について、「そのような誇りはすべて悪いことです。こういうわけで、なすべき良いことを知っていながら行わないなら、それはその人には罪です(16-17節)」とさえ断言しています。
自分の命はいつ消えてしまうかわからない霧のようなものであるという認識は、「いつ死ぬかわからないのだから、毎日を好きなように過ごす」という生き方を促すものではありません。神様に生かされているからこそ、私たちは与えられている命の日の限り、神様のみこころを求めながら、自分の人生においてすべきことに取り組んでいくべきではないでしょうか。
3.身の程をわきまえて、なすべきことを
前半の「悪口を言ったり、さばいたりしてはならない」というのは他者との関係についての問題であり、後半の「大言壮語して誇ってはならない」というのは自分自身の問題ですが、両者には「神様との関係において身の程をわきまえていない」という共通点があります。
神様というお方を蔑ろにした高慢さが、人間関係を破壊し、自分がすべき良いことについて盲目にさせてしまいます。私たちは、主こそ神であることを認め続け、自分がこの世界の主であるかのような思い違いをしないようにしなくてはなりません。自分が神様の前に何者であるのかを知ることは、私たちの生き方に大きな影響を与えます。
ヤコブは、「どんな良いことをしたか」ということではなく、「どんな良いことをしなかったか」という罪に注目していますが、一般的には、いわゆる慈善活動のような良いことについては任意とされていて、罪に問われないのが常識です。しかし、自分と神様との関係をわきまえるならば、「良いことをするのはあくまで任意であり、個人の自由」という生き方は選べなくなるはずです。
私たちは神様がこの世界に願っておられることをみことばから受け取り、祈りながら、それを実現させていくために、各々がなすべきことに取り組んでいく使命があります。私たちはどこで何をするにも、神様の前に身の程をわきまえた従順なしもべでありたいと願います。