「忍耐と祈り」

ヤコブの手紙 5:7-20

礼拝メッセージ 2022.6.12 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


主の来臨の約束

 新約聖書には多くの手紙が残されています。そのほとんどが1世紀に建てられたキリスト者の共同体(教会)に宛てられたものです。各々の教会にはそれぞれの課題があり、その課題をどのように解決し、新しい方向に行くべきなのか、数々の手紙が書かれた理由はそこにあります。
 その中でも、神に関していくつかの共通した理解があるのも事実です。その一つに、主がすぐに来られるという理解でした。聖書によれば、イエスの最期は十字架刑で殺され、その後に神によって復活させられました。復活と顕現は絶望していたイエスの弟子たちに立ち上がる力を与え、イエスを通して示された神の意志をこの地上に実現する働き(神に従い、人々が互いの尊厳を守ること)を委託されたのです。その後、イエスは天に帰ったとあります。いずれにせよ、弟子たちは師であるイエスなしに神の業を行わねばならなくなりました。イエスは2つの約束をします。1つは、イエスの代わりに聖霊が教会に与えられること。もう1つの約束は、イエスがこの地上に帰って来ることです。旧約聖書には「人の子」と呼ばれる神から遣わされた者がこの地上に到来し、この世界が神の意志に適って変革されると述べられています。イエスの弟子である初代教会は、この「人の子」をイエスと信じ、その再度の到来を待っていました。しかも、すぐにイエスは再びやって来る、少なくとも自分たちが生きている間にやって来ると多くのキリスト者たちが信じていたようです。生活には様々な困難があり、生きていくことも難しい世の中であったでしょう。イエスを信じることで周りからの誤解を受け、迫害を受ける者もいたと思われます。イエスの到来とともに、そのような困難・苦しみ・死の不安から解放されます。その約束にキリスト者は生きていました。


主の来臨の遅延

 しかし、案外とイエスの再度の到来が遅いことに気が付き始めます。2つのことが教会では問題となりました。1つは、死を克服することは不可能になったと思われたこと。自分たちは死んでしまうという恐れです。もう1つは、今の苦しみが継続していくことでした。そこで、ヤコブ書は再び忍耐を勧めます。それは単なる我慢ではなく、イエスの到来を期待することです。しかし、現実には困難が去ったわけではありません。むしろそれは厳しくなっているかも知れないのです。従って、忍耐をしている人々、忍耐を通して神と出会った人々について例を挙げて手紙の読者に励ましを与えようとします。


神に仕え、人に仕える

 期待する忍耐は同時に、救済の達成までにそれに相応しく生きていくことを意味しています。主の来臨の遅延について、その理由がいろいろと新約聖書には記されています。その一つに、一人でも多くの人々が神に従う生き方へと変えられるためであるとされています。救済の完成とこの世界との終わりとが重ねられるときに、この世界での生き方、私たちの現在の在り方が疎かになりがちです。あるいは、今を生きる意味を積極的に見出せなくなると言えるでしょう。初代教会にはその危険がありました。2,000年にわたる教会の歴史の中で繰り返しその罠に教会も少なくないキリスト者たちも嵌まってきたのです。この地上で生きる意義を失い、現実や困難からただ逃げるだけになってしまう人々です。逃避そのものは否定されるべきことではなく、必要な場合もあります。しかし、この世界の只中にあって私たちがキリストを通して神から呼びかけられて、その呼びかけに応答できる意義を忘れてはなりません。
 迫害に耐えること、困難を乗り越えることには意味はありますが、宗教的に自らを鍛えただけでは意味がないと言えます。忍耐という鍛錬は今の時代に重要ですが、神と人とを愛するための修練であることが求められています。忍耐は神によって裁かれてしまう道を逃れることではなく、困難な時代にあって神と人とに仕えていく道であることを確認しておきたいと思います。