「ほかの福音はない」

ガラテヤ人への手紙 1:6-10

礼拝メッセージ 2022.7.3 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1.キリストの福音を曲げてはならない

・早急に手をつけなくてはならない危機的状況

 パウロの他の手紙では、挨拶文の次に、手紙の受取人に対する感謝の言葉、あるいは神様をほめたたえる言葉が書かれています。教会に問題があり、心を痛めている時にさえも、パウロは神様への感謝の言葉を綴っています(コリント人への手紙)。それなのに、このガラテヤ人への手紙では、挨拶文を終えると、すかさずに「私は驚いています」と厳しく非難しているのです(6節)。新共同訳聖書では、「あきれ果てています」と訳されています。ガラテヤの諸教会は重大な危機にさらされていました。

 パウロがこの手紙を書くにあたり、第一声目に伝えたかったことは、「キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移っていくこと(6節)」に対する非難でした。パウロは、ガラテヤの人々がキリストを見捨てて、福音に反する誤った教えに移っていることを指摘しています。実際に、ガラテヤの教会の人々を「動揺させて、キリストの福音を変えてしまおうとする者たち(7節)」がいたようです。それが誰であるのかパウロは明確にしていませんが、それはユダヤ主義的なキリスト者の教師たちであったと考えられます(2:4、5:10.12、6:12.13)。当時の読者は、パウロが述べていることを具体的に理解することができたでしょう。ガラテヤ人への手紙から分かることは、教会に忍び込み、福音を曲解しているような者たちがいたということです。詳細は来週以降、礼拝説教で少しずつ見てまいりたいと思いますが、パウロはこの手紙の中で、何度も「信仰によって義と認められる」ことを主張しています。律法や行いに対する見解が福音に反するものとなっていたのでしょう。また、具体的なエピソードの1つとして、肉において外見をよくするために割礼を強いるような者たちであったこともうかがえます。

・もう一つ別に福音があるわけではない

 パウロは、彼らが宣べ伝えているものを「ほかの福音」と表現しました。ガラテヤの諸教会をかき乱す者たちは、自分たちが教えているものこそが「福音」であると自負していたようです(8節)。これは、キリストの福音と区別しやすい異教の神々のような偶像が入り込むよりも複雑な事態であるように思います。もちろん、神はただおひとりであるのと同様に、福音は複数存在するようなものではありません。ですから、パウロは皮肉にも「ほかの福音」と表現しながら、直後に「もう一つ別に福音があるわけではありません(7節)」と断言しています。 異なる価値観を尊重し合うことや、律法主義的にならずに柔軟に物事を考え、対応していくことなどは大切なことですが、神様が私たちにもたらしてくださった福音は、この世と調子を合わせるようにして、曲げてしまって良いものではありません。

 私たちも、聖書の律法やみことばを持ち出して語られる「ほかの福音」には、十分に気をつける必要があります。「自分の属するグループの教えが絶対に正しい」という理解は極端ですが、いわゆる「異端」と呼ばれるグループも事実として存在しています。ですから、少しでも不安に感じることがあれば、周囲に知恵を求めることを強くおすすめします。


2.キリストのしもべとして

・単なる見解の違いではない

 パウロは、「福音に反することを、福音として宣べ伝える(8節)」ことについて、「のろわれるべき」であるという究極の厳しい言葉を用いて、叱責しています。それも、直後の9節で重ねて同じように「そのような者はのろわれるべき」であると念を押しています。非常に厳しく、強い口調です。
 「そのような者はのろわれるべきです(8節)」の「のろう」と訳されている言葉は、「神にささげられたもの」「奉献物」という意味があり、悪い意味で用いられると「神の怒りに渡されたもの」という意味になります。パウロはもちろん、後者の意味でこの言葉を用いています。このような「神の怒りに渡されよ」という言葉がキリスト者に用いられるとき、それは教会の交わりからの追放を意味する厳しい言葉になります。

 パウロは、「ほかの福音」を宣べ伝えている者たちの教えを、単なる見解の違いとは捉えていませんでした。福音が宣べ伝えられるならば、どのような手段・形であっても構わないと考えるパウロが、「そのような者は、のろわれるべき」であると糾弾しているのです。父なる神のみこころにしたがって、私たちを救い出すためにご自分を与えてくださったキリストによる福音が、立つか倒れるかの危機的状況でした。キリストの恵みによって自分たちを召し出してくださった方がおられるのにもかかわらず、福音を曲げてしまうことによって、その恵みを無にするようなことがあってはなりません。それは、天の御使いでさえ、同様であると言います(8節)。パウロは、律法を「違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたもの(3:19)」であると理解しています。ここでは、そのような御使いたちでさえ、キリストの福音は決してくつがえしてはならないものであること述べているのだと思われます。

・「人々に取り入ろう」としてはならない

 同じ神の律法やキリストの福音を知りながらも、このような事態に陥ってしまったことの原因は、私たち人間の「人々に取り入ろう」とする心情にあると言えます。しかし、パウロは、自らが立つ福音はそのような心情に動機付けられたものではないことを主張しています(10節)。
 キリストによってもたらされた福音は、すべての人にとって救いであり、喜びですが、パウロが「私も世に対して死にました(6:14)」と言っているように、真の福音が世において必ずしも魅力的に映るとは限りません。人々に取り入ろうとするために福音を都合よく歪めてしまうならば、キリストがもたらしてくださった本来の福音とは別のものとなってしまいます。それは、キリストに従う者として絶対にしてはならないことであり、神を見捨てる行為であると言えます。

 今回のパウロの言葉を聞いて、「自分の聖書理解は健全なのだろうか」と不安になられたでしょうか。福音に反する理解や教えは、異端と見做されているグループに限らず、私たち教会の中や、自分自身の心のうちにも、少なからずあるように思います。私たちのうちから沸き起こる思いは、「人々に取り入ろう」とする考えで溢れているからです。
 だからと言って、一生懸命に聖書を学んだとしても、すべて正しく理解するということは、教師にもできることではありません。聖書を学ぶということに正確さだけが求められるならば、私たちの信仰生活は困難なものとなってしまいます。ただ私たちが大切にすべきは、聖書の豊かな知識そのものや、理解の深さというよりは、キリストのしもべとして日々、謙虚にみことばに教えられようとする姿勢なのではないでしょうか。主が私たちの信仰や福音理解を導いてくださることを信じて、私たちは、恵みによって自分たちを召してくださった主をお慕いしていきたいと思います。