「使徒として選ばれたパウロ」

ガラテヤ人への手紙 1:11ー24

礼拝メッセージ 2022.7.10 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,迫害者パウロ(11〜14節)

自分のことを語るパウロ

 パウロは新約聖書の書簡中、自分自身のことや伝道旅行での経験については多くを語りません。パウロとともに多くの働きをともにした、良き宣教協力者、医者であったルカによる「使徒の働き」が、唯一彼の回心から宣教の歩みについて、まとまったかたちで伝えているものです。本日の箇所も「使徒の働き」の記述を見ながら、確認すると良いでしょう。では、なぜパウロはここで自分のことについて書いたのでしょうか。自分のことを語ることは、難しいことです。私たちは、自分をよく見せようとしたり、自慢することは、神の御前で愚かなことであると知っています。それは気をつけていても、難しいことです。もちろんパウロは何も自己を誇るような記述をしたのではないことは明らかです。では、どういう理由から自分のこれまでの歩みについて書いたのでしょうか。それはある注解書のこの部分の表題となっているように、「パウロの福音の起源」を明らかにするためのものでした。

サウロからパウロへ

 11節と12節がこのあとの記述を記すことの理由を語っています。「私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」ということを示すためでした。パウロがガラテヤの人々に宣べ伝えた福音は、人間によるものではなく、キリストの啓示によって受けたものであることを証明するために書いたのです。ここに、回心前、回心した時、回心後のことについて語られています。
 この13〜14節は、サウロからパウロへという言い方もできるところです。彼はユダヤ人としてユダヤ教の中で育ち、そしてたいへん熱心なユダヤ教徒であったことを証ししています。その熱心さは、彼を激しい行動に駆り立てました。当時「この道」と呼ばれていたキリストを信じる信仰者たちと教会を破壊することを使命として彼は生きていたのです。彼のその時の行動が使徒の働きには次のように記されています。「サウロはなおも主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻き、大祭司のところへ行って、ダマスコの諸会堂宛の手紙を求めた。それは、この道の者であれば男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった」(使徒9:1〜2)。晩年にパウロは自分の過去を振り返りこう記しました。「私は以前には、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした」(Ⅰテモテ1:13)。彼の人生はある人が言うように動力の生涯であり、彼は燃える情熱で突き進む人でした。


2,回心者パウロ(15〜16節)

選ばれたパウロ

 しかし、その力の向けられる方向性が全く反対の方へ変えられる時が備えられていました。15〜16節を見ましょう。「しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき」と書いています。まずパウロは自分が生まれる前から、神が私を選び、召してくださったのだと語っています。これは預言者エレミヤに対して神が言われたことばを思い出させます。「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」(エレミヤ1:5)。

すべては神による

 ここで不思議に思うのは、ダマスコの途上の回心の出来事について、あえて詳述していないことです。使徒の働きには、9章、22章、26章と三回もこのことが書かれています。彼の回心物語はたいへんドラマチックです。凶暴な迫害の急先鋒であった人が、天よりまばゆい光を受けて倒れ、主からの御声を直接聞いたのです。しかし、パウロはその劇的な出来事の経験というよりも、それが神のご計画、ご意志から出たものであったことをここに訴えているのでしょう。続くパウロのことばからもわかるように、すべては神によるものであるということです。神こそが彼を選び出し、神がその深き恵みをもって彼を召し出し、そしてその神が彼のうちにご自身の御子を、その方こそが主であるという福音を啓示されたということです。パウロの使徒としての権威、そして彼の語った福音、宣教のことばは、すべて神によるものであったことをパウロは示しているのです。


3,宣教者パウロ(17〜24節)

人間から教えられたものではない

 17〜24節には、多くの地名が語られます。それは「エルサレム」、「アラビア」、「ダマスコ」、「シリア」、「キリキア」です。パウロが神から異邦人宣教の使徒として召し出された後、どういう行程、道のりを経て来たのかを示しています。あえて詳しい場所と時間の長さを記すことによって、パウロが記そうとしたことは、彼の語った福音と宣教のことばが人間に由来するものではなく、直接の啓示によったものであることを明らかにするためです。回心したパウロは最初にエルサレムには行かず、アラビアへ行き、そしてダマスコに行ったと言います。エルサレムに行かなかったのは、彼がエルサレムにいる使徒たちや指導者たちの教えを乞うて学び、福音の真理を得たのではないということを示します。それからパウロは、ケファすなわちペテロに会うために、エルサレムに上りました。そしてそこで主の兄弟ヤコブとも出会ったようです。しかし、他の使徒には会わなかったのでした。彼の福音が、先輩使徒たちからの教えによるものではないことがわかります。けれども、同時に、彼の使徒としての権威や立場は、エルサレムにいた使徒たちとの繋がりが何もないというものではありませんでした。ペテロや他の使徒たちが宣べ伝えていた唯一の福音を、パウロも主から直接受けて、異邦人の間で宣べ伝えるために遣わされていたのです。

福音を証しするために物語る

 これらの記事から特に二つのことを教えられます。一つは、福音の起源は神からの全き啓示であるということです。私たちは移りゆく世にあって、様々な情報、アイデア、思想など、これがよき知らせというものに数多く出会います。でも、その根源は、人間の発明か、あるいは人間の伝統に過ぎません。けれども私たちが受けている福音は、真の神がご計画をもって人間に与えられた唯一のものであり、それは啓示であるということです。第二に、私たちはこの福音を証しするために、パウロがしたように、自分を物語るということができるということです。私たちが今、教会にいることは、偶然でも、自分の敬虔さや努力によるものでもありません。パウロが言ったように、どんな過去だったとしても、神はあなたが生まれる前から、あなたを知り、選び、回心するように働いておられ、キリストの証人として任命されたのです。