「律法と約束」

ガラテヤ人への手紙 3:15ー25

礼拝メッセージ 2022.8.7 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,ガラテヤ人への手紙を通して力を受けよう

 これまで見てきましたように、ガラテヤ人への手紙を記しているパウロは、いわゆるユダヤ主義者たちと戦っています。彼の心は激しく揺さぶられていました。ですから聖書のこれらのことばは、パウロが冷めた心で淡々と理論を述べたり、難しい理屈を並べている訳ではなく、大変な試みの中において、血の出るような思いで、一句一句を書き留めたことばなのです。4章13〜14節を見ると、パウロは病気も抱えていたことがわかります。そのパウロのことばに導かれて、ルターはこの書を講義しました。『ガラテヤ大講解』です。彼にとってガラテヤ人への手紙は宗教改革の信仰の土台を形成する最も重要な書簡でした。彼はこの書を深く学んで「ガラテヤ書は私のケーテである」とまで言いました。「ケーテ」とは彼の愛妻カタリーナのことです。
 ルターがこの書を講義をしていた年は1531年であり、当時彼は激しい戦いの中に置かれていたと伝えられています。教皇やローマ・カトリック教会からの厳しい批判や攻撃、熱狂主義者たちとの困難な戦いの中で、彼自身苦しみながら戦っていました。彼は悪魔からの猛攻撃を受けていると強く感じて弱り果てており、うつ状態になっていたということです。そうした中、自分は脆く弱い存在に過ぎないが、しかしキリストがおられると信じました。このお方こそは、これらの恐ろしい怪物と戦って、完全に勝利してくださる、ガラテヤ書を読んで彼はそういう信仰に立ったのです。私たちもガラテヤ書から力を受けましょう。


2,律法とは何か、その役割について確認しよう

律法についての疑問

 さて、今日の聖書箇所で、パウロが何を語っているのかと言えば、それは律法の役割についてです。私自身、青年時代に教会に来るようになりましたが、聖書の内容が少しずつ分かるようになってからも、なかなか理解できなかったことが二つありました。一つは聖霊のことです。三位一体の第三位格であられる聖霊様とは、どのようなお方であるのかということが、まず理解が難しく感じられました。そしてもう一つのことが律法です。律法と信仰との関係は何か、旧約聖書に書いている律法による戒めや掟を、キリスト者はどう理解したら良いかということが容易にはわからなかったのです。
 3章の最初に戻りますと、これまでの話の流れでパウロは、創世記の登場人物である族長アブラハムについて記しました。「『アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた』とあるとおりです。ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。」(6〜7節)。「アブラハムに対して、『すべての異邦人が、あなたによって祝福される』と、前もって福音を告げました。」(8節)。
 信仰によって生きる人々こそアブラハムの子であるなら、仲介者モーセによって告げられた律法というものには、一体どういう意義があるのだろうか、という当然の質問が出て来ます。アブラハムに約束を与えられたお方と、モーセに律法を与えられたお方は、同じおひとりの神であるはずなのに、なぜ神は約束を与えてから後に律法をイスラエルの民に与えられたのでしょうか。それらのことに答えるために、15節から律法と約束について、特に律法の役割ということについてパウロは説明を行っています。

律法は、神の約束を無効にしない(15〜18節)

 第一に、律法は神の約束を無効にしたり、破棄することのないものです。例として、人間の契約について述べています。おそらくこれは別訳にあるように遺言書のことでしょう。「いったん結ばれたなら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません」(15節)。人間の契約でさえそうであるなら、神の約束がその後、四百三十年たってできた律法によって無効にされたり、破棄されることはあり得ないと言います(17節)。ここで言われているとおり、律法が与えられる何百年も前に約束はすでにアブラハムに語られ、結ばれていました。
 そして16節の説明は、創世記12章7節「主はアブラムに現れて言われた。『わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。』」や、同じく13章15節のことを指しているようです。そしてこの「子孫」とは単数で、キリストを指しているとパウロは書いています。神がアブラハムに与えた相続が律法によるのではなく、神の恵みの約束に基づくものであることがはっきりとここで確認されています。

律法は、神の約束を明らかにし、不可欠なものとする(19〜22節)

 そのように見ていくと、「それでは、律法とは何でしょうか」(19節)という疑問が出て来ます。見落としてはならないことは、パウロは律法が不要であるとか、廃棄すべきものであるとは、ここで一言も書いていないことです。彼自身もキリストに出会う前まで、律法を学び、律法の教えを生きることが自分の使命であると考えていました。律法は、「約束を受けたこの子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもの…定められたもの」(19節)とここに言われています。違反や間違いを示すためには、何が正しいことなのかを明確にする必要があります。正しいことがはっきりして初めて、何が間違っていることであるのかがわかるからです。その意味では、律法は神のご意志、御心がどこにあるのかを教えてくれる大切なものです。何が神に喜ばれることなのか、何が義なのか、律法の多くは「〜をしてはならない」という否定的表現でそれを明らかにします。ですから、律法は神の約束に反するものではなく、むしろそれを明らかにしてくれるものなのです。

律法は、キリストへ導く養育係であった(23〜25節)

 しかし、律法は神の約束に反するものではなく、むしろ神のご意志を明らかにしてくれるものではありますが、律法の下に留まり続けるならば、救われることはできず、真のいのちを得ることもなく、かえって「罪あり」との判断を受けるほかないことも真理です。パウロは律法が「すべてのものを罪の下に閉じ込めました」(22、23節)と述べました。これは牢獄のイメージです。律法は私たちを見張り、拘束し、閉じ込めるのです。さらに、律法は24節と25節で「養育係」とも表現されています。ここでの「養育係」という表現は否定的意味で使っており、罪人の愚かさや失敗を暴露することによって恥じ入らせ、彼らを罪意識と絶望感の中に陥れるような存在を指しています。これらのことから、パウロは律法が神の御前における人間の真の姿を示すものであり、キリストの真実による救いへと導く養育係であることを教えています。23節と25節に「信仰が現れる」ということばがありますが、これはキリストの真実が来て、私たちを救い出し、自由を与え、解放してくれるという意味です。『ガラテヤ大講解』の25節の解説でルターは、「信仰が来る」ということを「キリストが来る」ことに置き換えて、語っています。キリストはかつてある特定の時代に来てくださり、養育係の過酷な支配から私たちを贖い出してくださったが、今もキリストは霊的に日ごとに私たちのところに来られて、死の恐れと律法がもたらすどんな悪も減らし続け、平安と安全をもたらしてくださると、彼は記しています。