「迫害時の朝の祈り」

詩篇 3:1-8

礼拝メッセージ 2022.10.16 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


詩篇著者の危機

表題 ダビデによって書かれた詩篇,あるいはダビデのために書かれた詩篇,と言う意味です。アブサロムはダビデの子供であり王位継承者でしたが,父ダビデ王に反乱を起こした(2サムエル記15-18)。ダビデはその時に,人々から見捨てられ,危うく反乱者から殺されそうになっています。ダビデの危機に関連づけられた詩篇ということになります。

 著者自身の個人的な嘆きの言葉が記されています。多くの者が詩篇著者に逆らい,立ち向かってきます。そして,「彼(詩篇著者)に神における救いはない」と嘲笑します。ここでの歎きは,見捨てられている状態,孤独の状態,誰からも助けのないような状態,そこに大切な点があるようです。人々は自分を見捨てて,助けようとしません。神からの救い(助け)はなく,追い詰められています。

 このような嘆きの中から、詩篇著者はヤハウェ(主)に対して自らの信頼を告白します。ヤハウェは,盾であり,栄光であり,頭を挙げてくれる方です。人々が自らを責める中で,人々が自分の敵である状況の中で,ヤハウェは私を守ってくれます。自分の栄光を失っているような,つまり人としての尊厳を失っているような状態の中で,生きる勇気を与えます。詩篇著者が声を上げれば,ヤハウェは応えます。山は神と人との出会いの場所,神が自らを現す場所,として旧約では考えられています。ここでの聖なる山は,神殿が建立されていたシオンの山の可能性が高いでしょう。詩篇著者とヤハウェとの関係は,危機の中にあっても,維持されています。

 詩篇著者の神への信頼の具体的な姿勢が述べられます。命が危ないような状態の中で,詩篇著者は安心して眠ります。不安であれば眠れなくなるのは誰でも経験していることでしょう。誰かの守りがあるから,安眠ができるのです。多くの人々(ここでは詩篇著者の敵であろう)に包囲されても,恐れません。

 詩篇著者はヤハウェへの改めて願います。信仰告白があったとしても,命の危険が迫る現実の状態に変わりありません。具体的な助けを求める姿があります。ここでは敵がその力を失うことです。顎を砕くとは,力で相手をねじ伏せると言う意味以上に,相手への侮辱を表す言葉です。歯を砕くとは,敵の力を奪うことです。

 救いはヤハウェに属しています。救いは主のものです。人ではありません。自分の力でも,敵方が自分に示すかもしれない哀れみでもないのです。ヤハウェが救いを延べます。ヤハウェの祝福はその民にあります。ヤハウェの救いを認め,ヤハウェへの信頼を告白する者に,ヤハウェの価値観が実現していきます。


私たちの痛み

 私たちの人生には多くの問題がありますし,その解決は非常に困難なことが多いでしょう。詩篇著者の問題は,孤独であり,助けを得ることができない状況です。命の危険はないかもしれませんが,私たちも孤独の経験,孤独の苦しみを味わうことがあるでしょう。周りに多くの人々がいても,自分への無理解・無関心があったりします。時には,あからさまな敵対者が現れたりするかもしれません。
 そこで私たちが選ぶ解決への選択肢は幾つかあります。信頼できる人に相談する,人々から逃げる,敵対者と対決する,などなど。ここで詩篇が問題にしているのは,どのような選択が良いのかという知恵ではありません。むしろ、救いは主に属しているということであり,主の価値観が現される中で,救いが来ると言うことです。
私たちにとっての問題の解決は,確かに目の前の問題がなくなることでしょう。それを詩篇著者も求めています。では、その問題が解決すれば全て問題は解決しているのでしょうか? 問題によってはそうかもしれませんが,問題によってはそうではありません。同じ問題を繰り返すとするならば,付け焼刃的な解決は解決でないことは確かなことです。ダビデ王はアブサロムから難を逃れましたが,ダビデはその治世において人々を苦しめ,自分の家庭生活は破綻し,ダビデの死後その後継者争いは血で血を洗う凄惨な結果となっていきました。ダビデ王朝は主の命令に背き続けて民を苦しめました。美しい詩篇とは裏腹に,ダビデの根本問題に手をつけられなかった結果,問題が形を変えて起こりました。
 救いが主にあることは,神が共にいることであり,その応答として私たちが神へ信頼することです。それは当面の問題がなくなること以上に,(時には痛みも伴いながらも)問題の根本にメスを入れ,神の価値観が私にそして私の周りの人々に,広く社会に実現していくことです。敵がいなくなることに終わらず,敵との和解が求められます。他者が自分に関心を寄せることで孤独から解放されるだけでなく,私が他者に関心を抱くことです。