詩篇 5:1ー12
礼拝メッセージ 2022.11.6日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,詩人は、神に嘆願します(1〜6節)
神への嘆き
本日の詩篇は、タイトルにも「嘆願」ということばがありますように、詩篇の類型として「嘆きの歌」と呼ばれるものです。詩人の嘆きが記されているのです。個人として、あるいは民族としての「嘆きの歌」とされるものが、実は詩篇の中で最も多くを占めています。戦争、疫病、災害、社会の不正、経済的格差や貧困の問題など、何千年もの昔に生きた人々も、現代の私たちと同じように、あるいはそれ以上に苦しみあえいで生きていました。また、個人を取り巻く地域や生活においても、人々はさまざまな困難を抱えたり、心傷つくこともある中で暮らしていたことを、これら詩篇の「嘆きの歌」を通して私たちは知るのです。
しかし、苦しみ嘆き、悲しんで終わってしまうのではなく、神にそれを告げること、神に訴えることができるということを詩篇から学べるのです。どう祈ったらよいかわからなければ、ルターが言ったように、詩篇を唱えることで祈ることができるのです。詩篇の中に人間の「魂のすべての感情」があるとカルヴァンが言ったとおりです。「恐れは変わりて祈りとなり、嘆きは変わりて歌となりぬ」(新聖歌325)です。
神への祈り
ここで詩篇そのものに目を留めると、1節から2節にかけて、「私のことば」、「私のうめき」、「私の叫ぶ声」と詩人の祈りのかたちが表されています。この順序は、彼が抱えていた苦しみが時の経過とともに激しさを増すものであったことを示しています。「ことば」から次に「うめき」となり、遂には「叫び」になっています。「ことば」と表現されるような理性的なところから、詩人の祈りはいつしかことばに表し難い苦しみの「うめき」となり、やがて理性では抑えられない感情の噴出として「叫び」になったと言います。
祈りというものが常に理路整然としたことばの表現にとどまるものではないことがここに明らかにされています。祈りはことばによって確かに神に申し上げるものであることは間違いないのですが、祈りがことばを超えるものであることも確かです。ここに示されているように、祈りは魂そのものの深い「うめき」であり、腹の底から来るような「もがき」であり「叫び」です。場合によっては、ことばの無い「沈黙」ですら祈りとなります。祈りの人アッシジのフランチェスコの祈りが「私のすべて、私の神よ」ということばの繰り返しだったことはよく知られています。
そして詩人の嘆きの祈りの土台となっている信仰の表現が2節にある「私の王、私の神」という神への呼びかけです(参照 ヨハネ20:28)。自分が嘆き訴えている神は、自分の知らない遠くにいる存在ではなく、「私の王」であり、「私の神」とお呼びできる方であると詩人は認識していました。私のすべてを知り、支配し導き、愛と真実をもって正しくさばく方、この方に信頼すると詩人は表明しました。
神への訴え
4節から6節を見ると、彼を苦しめていた人たちのことが言い表されています。「誇り高ぶる者」、「不法を行う者」、「偽りを言う者」、「人の血を流す者」、「欺く者」と記され、神が何を憎まれるのかが明らかにされています。この詩篇作者がダビデであったのかどうか、それとも神殿礼拝のことを彷彿とさせる表現から、神殿礼拝を導いていた一人の祭司であったのか、確実なことはわかりません。当然のことですが、作者がわからなければ、この詩人を苦しめていた者たちが何者であったのかもわかりません。ただ、詩人が負っていた苦しみがとてつもなく大きなものであったことだけがわかります。
次に詩人のこの切なる祈りであり訴えの根拠が語られています。詩人は神に向かって「あなたは〜であるから」ということばを繰り返しています。「あなたは悪を喜ぶ神ではない」、「あなたは不法を行う者を憎む」、「あなたは偽りを言う者を滅ぼす」と云うように。詩人は、自分に敵対している虚偽を言う者たちからの攻撃から自分を守り、正義を明らかにして欲しいということが言われていますが、注目すべきことは、ここにその祈りの根拠を自分の正しさの上に置かず、神がいかなるお方であるのかを想起することによって表していることです。これは他の多くの詩篇からも学べることですが、詩篇の祈りは、神がどのようなお方であるのかをいろいろな表現をもって語っています。このことが祈りの生活においての大切な原則を明らかにしています。すなわち、祈りは私たち自身の願いや執り成しのことばですが、自分の内側に目を向けるだけではいけないということです。祈りを通して自分自身を見つめる一方で、その願いを捧げるべきお方に向かって常にしっかりと目を注ぎ続け、心を高く上げて祈らなくてはならないのです。
2,詩人は、神を礼拝します(7〜12節)
神の豊かな恵みの発見
7節の「しかし私は」ということばからこの詩篇の流れは大きく変わるのです。詩人は何か大きなことに気づきました。それは祈っていく日々の中で見出されたものでしょう。日本語本文ではわかりにくいのですが、7節と10節でそのことを示す鍵となる表現があります。それは「多くの中で」(ヘブライ語「ベ・ローブ」)ということばです。7節で「あなたの豊かな恵みによって」と訳されていますが「あなたの恵みの多さの中で」という意味です。また10節に「その多くの背きのゆえに」とありますが、これも「彼らの背きの多さの中で」と訳せます。
詩人は、祈りをしていく中で、二つの間違いのない真実を発見しました。一つは、主の恵みがいかに多くあるのかということ、そしてもう一つは、人間の罪深さということ、それがいかに多くあるのかということでした。プラスとマイナスの両方の真理がここにあるのですが、それでもこのプラスのほうである「神の恵みの豊かさ」がそのマイナスを完全に凌駕しているのです。9節と10節の嘆願が続いていることから、この詩篇が書かれた時には、詩人の問題が未だ解決していなかったのかもしれません。けれども、彼はここで宣言します。「しかし私は、あなたの豊かな恵みによって、あなたの家に行き、あなたを恐れつつ、あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します」(7節)と。
隣人のための執り成し
最後に、この詩篇は詩人個人の嘆きを祈るものであったのに、11節と12節を見ると、それがいつしか、他の人たち、隣人に対する願いと執り成しへと昇華しています。「どうか、あなたに身を避ける者がみな喜び、とこしえまでも喜び歌いますように。あなたが彼らをかばってくださり、御名を愛する者たちが、あなたを誇りますように」。祈りは神と一人ひとりが個人的に繋がるばかりではなく、それはやがて祈りを捧げる人たちの集まりとなり、祈りの共同体、信仰の共同体を生み出し、広がりゆくものです。ともに祈る仲間、ともに神を喜び讃える兄弟姉妹として、私たちが信仰の共同体としての教会の中に置かれ、互いに祈り合える、祈り執り成してもらえる絆で結ばれていることが、この11節にある「喜び」のかたちなのです。